「世界一素敵な学校」について③

 さて、ここまで、「世界一素敵な学校」を否定したいと思う気持ちは何故湧いてくるのかということについて書いてきました。次は、「世界一素敵な学校」での学習はどのようにして成立しているのだろうかと勝手に考えたことを書いていきたいと思います。そこには、「自己肯定のための否定」的な視点が含まれていることも否めません。
 「世界一素敵な学校」の中で、生徒たちが勉強しようと思い立つきっかけは果たして何なのでしょうか。リンゴが落ちた理由が気になったからでしょうか。エンドウ豆にしわがあるものとないものがある理由を知りたいと思ったからでしょうか。おそらく、本を読みたいから字が知りたいといったような理由は多くあると思いますが、前の2つのような理由で勉強したいと感じた生徒は、それほど多くはないはずです。気になって、アメリカのサドベリー・バレー校について書かれた文章を読んでみました。すると、そこにはこうありました。
 「遊んでばかりいても、だんだんこのままではいけないことを感じ取る。」
果たしてこれは、完全なる自発的学習と言えるのでしょうか。恐らくこの学習への動機は、「他者から肯定されることによって、自己の肯定を得ようとしている」からではないでしょうか。それはなんら、学校でいい成績をとって、良い学校に行って、認められようとする従来の学校で往々にして見られるような学習の動機と変わらないのではないでしょうか。ただこれは、悪いこととも言えません。例えば、資格取得の際の勉強の理由は、自分の職に活かすため、スキルアップを図るためでしょう。資格をとれば、その分社会に認められます。社会に必要とされます。そうやって多くの他者からの肯定を得れば、安心できます。大げさにいえば、「生きていていいんだ」と思えます。それは、例えば多くの男性が、いろんな女の人に言い寄られても、浮気するかどうかは別問題だとして悪い気はしないのと同じですよね(たとえが悪いかな 笑)。その学習の動機は、自己の肯定を得ようとするための、当然の動機だとも言えます。
 学習の理由にはふたつあって、ひとつは「自分自身の興味関心のため」もうひとつは今まで述べてきた「他者からの肯定による自己の肯定を得るため」です。「世界一素敵な学校」は後者の理由を上手く「自発的」に引き出させているに過ぎないのかもしれません。また学習は、両者のバランスがうまくとられながらなされるものであるべきだとも思います。「興味・関心」が全く抜け落ちた学習はもはや苦痛でしかないし、かと言ってそれによって他者(他者の数は関係ない)から肯定され得るものでなければ、またしてもそれは苦痛となります。
 なんだか、この学校を否定しているのか肯定しているのかわからない変な文章ですね。事実、わかっていないんです。でも、恐らくは一番初めに書いたように、未知のものが不安で、何かしら問題を見つけてやろうという気持ちになっているんでしょうね。ちなみに、高橋源一郎さんは、自分の子どもを「普通の学校」に入れることにしたと言っていました。「みんなと同じ経験をさせたい」とのことです。
 あと、なんか「自己の肯定のための否定」とか、「他者の肯定による自己の肯定」とか、「自己の肯定」を強調してしまったけれど、人間が「自己の肯定」ばかり考えているというのは短絡的だし、むなしいことだね。「自己の肯定」を「否定」することもまた、「自分ばかり考えてるわけじゃないんだよ僕は」という「自己の肯定」につながってしまうという考えは、少し皮肉が過ぎるかな。
by kobaso | 2012-01-20 03:08 | 退屈小話
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