囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論 ウィリアム・パウンドストーン著 松永俊輔訳 / 青土社 実験をしていると、次の作業をするために数時間待たなければならない時が往々にしてあって、普段なら、その時間にまた別の実験をしたり論文を眺めたり(読めよ)するんだけれど、今週はお盆気分が抜けきらないのかなんだかやる気が失せて、昨日は実験の合間にちょっと散歩したり小説読んだりしたし、今日はこうやって本の感想を書いたりしています。その分やらなければならないことが山積してしまっているから、明日はちゃんと頑張らないとな。 囚人のジレンマ。文系の人は大学の授業でやったりするのだろうか。数学者で原爆の開発にも携わったフォン・ノイマンが打ち立てた、「いろんな選択肢があった時に、どういう選択をするのが最も合理的か」という理論のうちのひとつ。 具体的には、同じ事件の犯人が2人逮捕されて、「このまま相手の罪を告白しなければあなたの懲役は1年です。あなたが相手の罪を告白すれば、あなたは釈放され、相手の懲役は3年となります。ただし、両者とも罪を告白した場合は2人とも懲役は2年です。そしてこの条件は相手も同じ。つまり、あなたが黙秘し相手があなたの罪を告白すれば相手は釈放され、あなたの懲役は3年となります。」と言われたときに、どの選択をするのが最も合理的かというお話。答えを言ってしまうと、「相手の罪を告白する」のが最も合理的です。 ただ、この本の中でも触れられているけれど、現実は「合理的」には動かない。そもそも判断基準を懲役年数だけにすること自体に無理があって、相手を貶めることを良しとしない人にとっては、最も価値のある選択肢が「黙秘」になる。 人の価値観はみんなまったく一緒なわけじゃないから、いろんな理由から選択をする人がいて、そうやって様々な理由付けと選択が行われるうちに事態は混沌とする。 けれど、「合理的」な主張はそれなりに強い力を持っていて、「これが最も合理的です」って宣伝すれば、たぶんある一定の数の人間はその「合理的」な選択肢をえらぶ。 「合理的な選択」みたいな話は、世間にたくさん出回っていて、よくテレビの中とかネットでも目にします。「○○な人は△△だから□□だ」とか、「××な人には※※なように接するといい」だとかいう話。そういう話にはたいてい「科学的観点から」とか「心理学的観点から」だとかいう文句がくっついている。そういわれるとなんとなくその説に客観性や論理性があるような気がしてきて、納得しかけてしまいます。けれど科学が人間問題を解決したことなんてないし、心理学が人のジレンマを取り払ったことなんてない。実生活のなかで数式みたいにきれいな論理性があるものなんてほとんど存在しなくて、世間一般で「正しい」とされる事柄も、いろんな条件を限定しないと「正しい」とは言えない。にも関わらず、あらゆる制約の中だけでも合理性・論理性・客観性をもった主張や選択はすごく強い。そういう主張を聞くと、納得しなければ「ならない」ような気さえしてきます。 たとえばたくさんの選択肢があったとして、たとえ論理性も合理性もない選択肢を解答に選んだとしても、その選んだ人本人の価値観にさえあっていれば、きっとそれはそれでいいんだ。けれど、国語の問題みたいに、ひとつの選択肢を選ぶためにはそのほかの選択肢を消去しなければならない時があって、その消去する選択肢が声高に論理性だとか合理性を主張してきたら、それをいちいち否定していかなければならない。なんて七面倒で途方もないんだろう。もしそういう選択肢を選択する人がいるのなら、せめてその選択肢が、受験生をひっかけるためだけに作られたとか、出題者のたんなる遊び心で作られたみたいな無責任な選択肢じゃなくて、少しでも解答者が拠り所となれるような「正しさ」を持った選択肢だったらいいのになって思います。 フォン・ノイマンは米ソ冷戦時に、「平和のために水爆をつかって先制攻撃を行う」という選択肢を提案したりしました。論理性や合理性をもった選択肢にも、恐ろしく無責任な選択肢ってものがあったりする。 ここまで考えて、話を国語の選択問題にたとえるあたり、自分も限定された「正しさ」の中で話を進めようとしてしまっているなとか、そもそもこんな、抽象的で考えても仕方のないことばかりに思考がとんでしまうから、ものごとを判断することができなくなったりする時があるんだなとか思いました。 結局のところ、「単純にものを考えるようにしてる。そうでなくたって手に余るから。」(by 山崎まさよし「ツバメ」)みたいな割り切り方をしないと仕方のないことだってたくさんあるよねって思うし、なんか飲みに行きたいなーとかって思うくらいに、僕もたくさんのことに対して無責任です。 わっはっは。 堂々と「そうだよ、これ、無責任だよ」って言えるくらいが何事に関しても楽なんじゃないかなって思う。どうせどんな選択をしたって責任は感じるんだから。 荷物は軽いほうがいい。自分自身で無責任だよっていえるくらいの責任を負うべきなんじゃないかなあ。そしてこれも特定の条件の中でしか「正しさ」を発揮しない主張。 そうこうしているうちに試料の調製終わったかな。乾燥器に入れて今日はもう帰ろう。 最近帰り道でよく蝉が突進してきて、その度に「銃で撃たれた人」の真似をしたくなる。こんなくだらないことばっか考えているのに、文章を書き始めるとまるでものすごく思い悩んでいる人みたいになってしまうの、僕の悪い癖じゃよ。
by kobaso
| 2014-08-20 18:12
| 読書小話
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