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雪沼とその周辺

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雪沼とその周辺
堀江敏幸
新潮文庫

鄙びていく町の、静かな話が詰まった短編小説。
それぞれの話は独立してるんだけれど、どこかでちょっとつながっている。
小さな町の中での話だから、つながるのも当然なんだろうな。その小ささが、また好きです。
少しずつ変わっていく町で、それぞれの職業の人が、それぞれの職業に、ぼんやりとした誇りと自信を持って、日常を過ごしている。決して楽しい話ばかりではなく、悲しい話もあるけれど、それでも幸せがふんわりと感じられる本です。「幸せ」?「安心」かな。うーん。「安心」もちょっと違うかも。なんて言えばいいんだろう。

この本の中の「送り火」は、高校時代に模試か何かで、一部分だけ読んだことのある話でした。
やっぱり、どこかで読んだことのある文章と、思いがけず再会する感覚は、すごく好きです。
その箇所に入る前に、「あれ、これどこかで読んだことあるかもな…。」と思いつつ読み進め、その箇所にたどり着いた途端、そのときの状況とか、その時に思ったことがありありと思いだされて。
僕は、あまり記憶力が良くないので、読んだ本の内容はほとんど覚えていません。ただ、おぼろげに雰囲気を覚えているだけです。実際、お気に入りの本ばかりを集めた本棚に並んだ本の背表紙だけを眺めてみても、一冊一冊の話の内容を詳しく説明することができないくらいです。
それでも、一度読んだことのある文章を読むと、記憶がどこかからかぶわーっと湧いてきて、すごく不思議な感覚になります。デジャヴみたいな。その感覚が、好き。
高校時代に読んだ「送り火」の一部は、この話の終わりに向かう1つの伏線でした。
何年かかけて、ひとつの話を読み終えた気分になれて幸せでした。

「送り火」、最後のシーンは人によって色んな捉え方があると思う。
どういう話だと思ったか、誰かに聞きたくてうずうずです。
by kobaso | 2011-03-30 22:14 | 読書小話

さんぽ

先日の作品展とか、ちょっと用事で滋賀に戻っています。
なんかばたばたしてましたが(笑
散歩に行くと、彦根はしっかり春でした。

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いぬとさんぽ

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つくし

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いぬとまち

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さくら

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りりしくなってみた

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ゆうひ

明日、東京に戻ります。
戻りたくないなぁ…。もう少しゆっくりしたかった。
また、いつも通りの大学生活が今年度も始まります。
by kobaso | 2011-03-29 23:25 | 退屈小話

小林佐喜子作品展

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親馬鹿があるなら孫馬鹿もあるだろうということで(笑
祖母が、26日27日の2日間、関ヶ原ふれあいセンターで書展を開きます。
今まで、展覧会に出展したりということはあったのですが、個展という形は初めて。
なかなか、立派なものになっておりますです。
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↑この作品が好き。
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↑この作品も好き。
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by kobaso | 2011-03-25 18:50 | 退屈小話

バーディ

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ばか(愛情をこめて)。
by kobaso | 2011-03-21 18:22 | 映画小話

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やたらと光る、丸くて白っぽいなんだかよくわかんないものが写ってますが、月です。
昨晩「まぶしいなぁ」と思って布団の中から這い出て窓から外を見ると、満月がこれでもかというほどぴかぴか光っていました。月らしからぬ、輝きようでした。綺麗なのかな、これ、綺麗なのかもなと、寝ぼけた頭で、がさごそとカメラを取り出し、ホワイトバランスとか露出とか何も考えずただシャッターを切ったので、やたらと光る、丸くて白っぽいなんだかよくわかんないものになってしまいました。お月さまごめんなさい。

なんでも、NASAによると19日は月と地球が最接近する「スーパームーン」だそうで。月の大きさは14%大きく、30%明るく見えたのだそうです。首都圏の節電運動と相まって、余計明るく見えたのかもしれません。でも、なんだか「スーパームーン」って「月」って感じのする名前じゃない気がします。月は、なんというか、満月でも控え目な方が、好きだな(とか言ってちゃっかり写真撮ってるわけですが)。

昔からなんですが、月とか太陽を見て、時々、それが物体ではないように思えてしまう時があります。
「もの」というより、「穴」に思えてしまう時があるんです。
地球があるじゃないですか、その外側に、空があって、さらにその外側に、すごく明るい世界がある。月とか太陽は、ちょうど「穴」になっていて、その「穴」からその「すごく明るい世界」の光が、漏れてきているような。
あれ、なんだかおかしいこと言ってますかね。酔っぱらってるわけでも、ロマンティックになってるわけでもなく、ただぼんやり、空を見てそう思うことが、昔からあるんです。
今でこそ、望遠鏡が発明されて天体を立体的に眺めることができたり、アポロが月面にたどり着いたりして、月とか太陽が「塊」の「物体」であることがわかって、それをすんなり受け入れることができていますが、アポロとか、望遠鏡とか以前の、遥か昔の時代の人が、月とか太陽を「物体」として認識していたのって、すごいことだなぁと思います。太陽中心か、地球中心かという違いはあるけれど、それを「物体」として認識していたんですよ(ですよってねぇ)。
あんなものが空に浮かんでいることを受け入れていた、ということも驚きです。よくよく考えてみると。

月というと、父親に月をせがむ女の子の話が描かれた絵本のことを、思い出します。
「お父さん、お月さまとって。」という台詞(曖昧)がすごく印象的で、結構好きで何回も読んだはずなのに、お父さんが夜空にはしごをかけて、月を取ってくるところまでしか思い出せません。
あの後、どうなったんだっけ。月、空に返したんだっけ。なんでだったっけ。
そういや、あの絵本の月には、顔があったな。
月に顔を描くようになったのは、いつからなんでしょうね。
by kobaso | 2011-03-20 21:48 | 退屈小話

めがね

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さて、「かもめ食堂」「プール」に続く、小林聡美ともたいまさこの、なんとなくきれいなぼうっと映画第3段です(勝手にきめちゃったよ、しかもそんなネーミングセンス良くないよ、どうしてくれようどうしてくれよう)。

やー、良いぼうっとでした。
なんだろう。たぶん、途中からこの映画を観たら、この映画の雰囲気に馴染むことができないと思います。
「かもめ食堂」「プール」でもそうだったのですが、最初、登場人物はぎこちない。気持ち悪いぎこちない感じじゃなくて、観てる側の「どんな映画なんだろう」という、初対面の人に会う感じに同調するようなぎこちなさ。で、登場人物のぎこちなさがとれる頃に、不思議と観ているこっち側も、映画の雰囲気に打ち解けている。いつのまにか、ぼうっとできている。すごく自然な心地良い感じ。
静かで、台詞もぼそぼそとした、決して饒舌ではなくどちらかというと無口な感じなんだけれど、それが観ていて本当に心地良くなる映画です。

あと、もたいまさこが観る度に怪人化している。
おばあちゃんに欲しいかもなぁとこの映画観てて思ったんだけれど、だんだん思い直してきて、やっぱりおばあちゃんはいいやと思いました。隣の家の人とか、行きつけの八百屋さんとか、行きつけの喫茶店の人とか、そういう感じがいいかな。大体の登場人物の背景には、想いを巡らせることができるのに、もたいまさこの役どころだけ、もうわかんない。お手上げ状態です。怖いんだか面白いんだか。

あとね、やっぱりご飯がおいしそうなんだ。
食い意地、はってますかね(笑
by kobaso | 2011-03-20 01:06 | 映画小話

呼び方

自分のことは普段、「僕」と呼んでいます。
物心ついてから、ずっと自分のことを「僕」と呼んでいます。
ちょっと大きくなって、まわりに自分のことを「俺」と呼ぶ人が増え始めてから、『「僕」でいいのかな「俺」じゃなくていいのかな』と思って、試しに1人で「俺」と呼んでみたら、なんだかぞわぞわして気持ち悪くなったので「俺」とは呼ばずに「僕」と呼んでいます。人が「俺」と言うのは自然にすっと入ってくるのに、僕が「俺」と言うのは違和感があります。不思議です。

この前、何かの本で、子どもが一人称を「僕」から「俺」に変えるのは、反抗期を迎えるからだ。周りに頼らず、自立しようとしていることの顕れだ書いてありました。なるほど、たしかに僕は、それほど激しい反抗期というものを迎えたことがありません(親が何と言うかはおいといて)。自立しているかどうかも、怪しいところです。ただ、「俺」と呼ぶ人と同じくらいの依存具合であるとは、思っています。
「僕」から「俺」への変化が自立の象徴だとしたら、女の人の場合はどうなるんだろうなと思いました。「わたし」が「私」になるのかな。自分の呼び方にちょっとした雰囲気の違いがあるんだろうか。あんましない気がするなぁ。ちょっとこの考え、ひねくれていますね。

僕はまた、友人の名前を呼ぶ時に、「名字」+「くんorさん」という場合が多いです。ときたま「ニックネーム」や下の名前で呼ぶ場合もありますが、基本的には「名字」+「くんorさん」です。普通、仲の良い人ほど下の名前を呼び捨てで言うものなのかもしれませんが、とても仲の良い人でも「名字」+「くんorさん」の場合が多いです。これもまた、気分で下の名前を呼び捨てで言ってみたりすると、なんだかぞわぞわします。不思議です。
思い返してみると、すごく近しくなった人であっても、「さん」づけでした。不思議です。
呼び捨てということが、どうやらできない人間のようです。
別に壁を作ろうとしているわけではないのですが、呼び捨てで呼ぶと、やはりぞわぞわします。

この「俺」に対するぞわぞわ、「呼び捨て」に対するぞわぞわは、一体どこからくるのか、いつからきていたのか、このぞわぞわを感じるのは自分だけなのか、目下の悩みであります。
by kobaso | 2011-03-18 23:58 | 退屈小話

思い出

 こんにちは。どんなお昼を過ごしていますか。こちらは風が強く、マンションの6階にいると、強風による揺れと余震の揺れで穏やかな湖の上に浮かぶ船に乗っているような感覚です。

 地震による影響で、いろんな予定が無くなってしまったので、塾に行く夕方から夜以外の時間は、たいてい本を読んだり、ぼうっとしたりしています。ほぼ引きこもりに近い状態なので、こう、なんというか、独り、色々な事を思い出したりします。
 思い出したら、誰かに話したくなってしまうのですが、誰もいないので(笑)ここに独りごとのようにつらつらと書いていこうと思います。

 中学2年か3年の、夏休みのことでした。
 僕は、埼玉の祖父母の家へ遊びに行った帰りの、新幹線に乗りました。
東京駅のホームでは、祖父母が、またおいでと手を振っています。車内の僕は、窓越しに手を振り返します。祖父母がにっこりと笑います。僕は、埼玉にいる間よく祖父に叱られておどおどとしていたのですが、それでもこの帰りの新幹線の窓越しに祖父母のにっこりを見ると、また来年も来たいなと、ほっと一息ついて思うのでした。
 新幹線が東京駅を発車します。僕は、2人がけの席の、窓側に座っています。隣にはまだ誰も座っていません。新幹線がビルの森を抜け、車窓から住宅街と緑の山々が見えるようになったころ、僕はまた少し安心して(昔から都会の空気が苦手でした)、東京駅で買ってもらった大好物の鯖寿司の包みを開けます。祖父母には「なんで東京まで来て鯖寿司をほしがるんだ。」と訝しがられていました。少し小造りの鯖寿司は、あの独特の、ちょっと鼻にぺったり残るようなお酢の香りがします。僕は一口鯖寿司を食べては、温かいお茶をすすって、非常に満足していました(昔からおじさんくさいことが好きでした)。ゆっくりと外の風景を楽しみながら鯖寿司を食べることを信条にしていたので、なかなか鯖寿司は減りません。
 新幹線は、小田原駅に着きます。新幹線を降りる人はいませんが、乗ってくる人がちらほらと見えます。僕は少し、そわそわしていました。隣に変な人が座ると嫌だなと思ったからです。ちょっと怖い男の人が座ったらどうしようとか、酔っ払いのおじさんが座ったらどうしようとか、そんなことをびくびくと不安に思っていました。何人かのサラリーマンが通り過ぎます。誰も座らないかな、それならちょっと安心かなと思った時、ぬっと、背の高い外国人のお兄さんが視界に入りました。外国人のお兄さんは、僕の席の方まで歩いてきて、座席の番号を確認し、少し微笑んで、僕の隣の席に座りました。目が鷹のような色をしていました。かっこよく、優しそうな感じのする人でした。
 「外国人!!」やくざなお兄さんとか、酔っ払いのおじさんを想定はしていましたが、外国人という想定はしていませんでした。
「ウェア アー ユー フロム。 アイム リブ イン シガ ニア キョート。。。」
 話しかけられてもいないのに、必死で今までに習った英語を思い出そうとしました。出てくる英語は小学生が話すような英語ばかりで、1人で勝手に、焦っていました。
 外国人のお兄さんは、ゆっくりとリュックサックを自分の足元に置いてから、僕の食べている鯖寿司をじっと見つめました。
“Oh! Sushi? I want to eat. How can I buy this?”
 お兄さんは、ゆっくりと、丁寧に言いました。僕はとても焦っていたので、その簡単な英語でさえ、理解するのに少し時間がかかってしまいました。
「アイ ボウト ディス アット トーキョーステーション。ソー、アイ ドン ノウ ウィー キャン バイ ディス ヒア。バット アイ トライ。プリーズ ウェイト。」
 やけに単語と単語の間があいた、カタカナ英語で話します。お兄さんは“OK”と言ってにっこりと笑ってくれます。どうやら理解してくれたようです。ただ、ちょっと待ってと言ったのはいいものの、売り子さんがいつ来るかわかりません。お兄さんはずっと、微笑んでいます。僕は心の中で汗だくになっています。たぶん、外見的にも汗だくになっています。
 運よく、それほど時間がたたない間に、ガラガラとキャスター(?)をおしたお姉さんがやってきます。僕はお姉さんを呼び止め、寿司はありますかと聞きます。申し訳ありません、取り扱っておりませんとお姉さんがにっこり言います。どうしよう、でもとりあえずこのことをお兄さんに伝えないと。
「ソーリー ゼア アー ノット スシ イン ディス トレイン。ソー、ウィー キャント バイ。。。」
 そこまで言うと、お兄さんは一瞬とてもしゅんとした表情をして、すぐににっこりと笑い、“OK. Thank you.”と言って、なにやらお姉さんに早口で英語を話します。どうやら、日本らしい食事はないですかと尋ねているようです。お姉さんは、きびきびと、はきはきと早口の英語で話します。幕の内弁当を薦めているようです。僕はなんだか、やるせない気持ちになります。
 お金を払い、幕の内弁当を受け取ったお兄さんは、そっと折り畳み式の台を広げ、弁当をその上に置きます。リュックサックからevianのペットボトルを取り出し、お弁当のふたをゆっくりと開けます。”hmm…nice.”お兄さんは少し目を見開きながら、にっこりと嬉しそうに言います。すごく気を遣ってくれているのだなと、子どもながらに思います。
 お兄さんの笑顔を見て、少しほっとしたのですが、それでも先ほどの心から残念そうな、しゅんとしたちょっと子どもっぽい表情が気にかかって、僕は自分の鯖寿司を一貫、お兄さんの弁当箱の上にポンと置きました。お兄さんは大きく目を見開いて”Thank you! Thank you!”とはしゃいで、なぜか僕の、その一貫分の鯖寿司が空いたスペースに、シイタケをポンと置いてくれました。もしかしたら、シイタケはお兄さんの好物だったのかもしれません。
 「いただきます。」とお兄さんが手を合わせます。なんとなく、僕ももう一度この儀式をしなければいけないような気になって、「いただきます」と手を合わせます。
 お兄さんは、とても外国人とは思えないほど上手に箸を使います。
「オー、ユー キャン ユーズ ハシ ベリー ウェル。」
 そういうと、お兄さんは口をもごもごしながら、目でにっこりと笑います。僕はこのお兄さんのことが、とても好きになっていました。
 弁当を食べ終え、「ごちそうさま」と言ったあと、ガムを取り出し、「いる?」と聞くように目を開いて、首をかしげます。僕はありがたくガムをもらい、銀紙を外して、口に運びます。お兄さんはガムを食べながら、ゆっくりと簡単な英語で、ぽつぽつと話をしてくれました。
 お兄さんはスペインの人で、日本がとても好き。今、日本全国を旅している。これから京都に行って、竹でできた綺麗な傘を買いたいと思っている。
 僕は、相の手を入れられるほど英語を話せないので、ただコックリコックリと頷いて、話を聞いています。
 それからお兄さんは、リュックの中をガサゴソとして何かを探します。”I live in this town.”そう言って、一枚のポストカードを見せてくれました。青い夜の街。黄色と緑色の、やわらかな明かりがつく、港町の写真でした。「ワオ。。。ソー ビューティフル。」しばらくじっと見ていると、お兄さんがまたにっこりとして”I give you.”と言います。何と言っていいのかわからず、僕はひたすら「サンキュー」を繰り返します。「大切にします」とか、「こんどこの街に行ってみたいです。」とかいう英語が、出てきませんでした。
 ものをもらった以上は、何かを返さなければいけないと思って、僕はガムの銀紙でツルを折り、お兄さんにあげました。お兄さんは、とても喜んでいました。ゴミにしかならないようなツルでした。
 今思い返してみても、お兄さんは本当にいい人でした。
 お兄さんが記念に写真を撮りたいと言いました。僕は片手にポストカードを持ち、お兄さんは片手にツルを持っています。たぶん、ちょっとどぎまぎとした笑顔になっていました。
写真を撮ってからは、何も話すことがなくなってしまったので(話したいことはたくさんあったけれど話せなかった)、お兄さんは本を読み、僕はまた窓からの風景を眺めます。
 僕が米原駅で新幹線を降りる時、お兄さんはにっこりと手を振ってくれました。僕はまたおいでと、にっこり手を振り返しました。

 今でも、お兄さんからもらったポストカードを持っています。ポストカードを見るたびにお兄さんのことを思い出しては、行ったこともないスペインの港町の様子を想像してみます。
 お兄さんは、日本の写真を見て、日本のことを思い出してくれているのでしょうか。だとしたらお兄さんは今、日本をどのような目で、見ているのでしょうか。鷹のような、あのかっこいい色をした瞳で、あの優しい目元で、日本を見てくれているといいなと、思います。

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by kobaso | 2011-03-17 13:21 | 退屈小話

地震で思うこと 2

なんとなく、周りが、トゲトゲしい気がします。
「周り」と言っても、大学に行かず、サークル活動を自粛しなくてはならない今、自分の周りは塾とネットとテレビだけなのですが。
誰かが「ちょっと疲れた」と言うと、「被災している人のことを考えろ」と批判があり、
誰かが「家には食料があるから大丈夫」と言うと、周りの人が睨んだり、
「首都圏を離れる」と誰かが言うと、「放射線に関する混乱を招くだけだからそんな動きはひろめるな」と批判があったり。
なんとなく、過敏になっているような気がします。
苦しんでいる人がいることも、身の危険も顧みず懸命になっている人がいることも、たぶん誰だってわかっていることだと思います。もちろん、言ってはいけないこと、やってはいけないこともあるとは思います。
それにしたって、なんだろう、嫌だなと思ってしまいます。この空気感。
自分が軟弱者だからかな(笑
悲しみも、苦しみも消せはしないけれど、トゲトゲしさは少なくできると、思うんです。
怒りと、指摘は違います。なんとなく、怒りが大きくなりはじめている気がします。

ちょっと疲れた人が「疲れた」と気軽に言えて、それを「そうだね」と受け止めることができて、
ちょっと余裕のある人が「自分は大丈夫なんだ」と気軽に言えて、それを「いいな」と軽くうらやむことができて、
その人の行動を、自分の勝手な解釈で勝手に批判したりすることがないような、
そんな空気感が、はやく戻るといいなと思います。

東京の駅は、未だにちょっと、寂しい空気です。
今まで、人が多くてチカチカクラクラする東京が嫌いでしたが、
人が少なくなって、すいすいと歩ける東京も、なんとなく、もの足りないです。
あまのじゃくですね(笑

ここ何回か「だ・である調」で書きましたが、今回はまた「ですます調」に戻りました。
気まぐれなブログなので、そういうもんです。
いろいろなことも、案外気まぐれにできているんじゃないかな。きっと、そういうもんです。
by kobaso | 2011-03-16 18:16 | 退屈小話

地震で思うこと

数日分の食料を買いに、スーパーへと出かける。少し遠回りをして、街の様子を見ながら散歩してみる。住んでいる地域は埋立地が多く、地盤が弱いためか、ところどころひび割れているところを目にする。日本の、人間が住んでいる場所って、少し無理をしてできているんだなと思う。そういえば、僕の通っている品川にある大学のグラウンドは、液状化して水溜まりができているそうだ。もっとも、普段からメインストリート脇にある排水溝の水が溢れだして、盛大に川が流れているような大学なのだけれど。

スーパーに着く。練り物や卵、牛乳など、東北地方に関連している食品は全て品切れになっている。日本って小さい国なのだなと実感する。ひとつの地域に、頼りすぎている部分があるのではないか。でも、それがその地域の個性というか、特別性となって、その地域の経済を支えているという側面もあるのかもしれない。何が良いのか、ということが僕にははっきりとしない。
スーパーでは、冷凍保存できる肉類と、保存のきく根菜類を買う。この時、財布の中にあまりお金がなくて、家にはもうほとんど米がなかったのだけれど、明日でいいやと思って米を買わなかった。商品棚には残り3袋ほど食パンが並んでいたのだけれど、普段あまり食パンというものを食べないので、買わなかった。このことを、あとで後悔することになる。

家に帰って、パソコンでテレビのニュースを見る。映し出されるのは凄惨なものばかりで、目の前で家族が流されていった人や共に避難していた人が亡くなったことを知り泣き崩れる人の姿が映っている。自分の、東北にいる友人や、後輩はみんな無事だったのでとても安心したし、嬉しかったのだけれど、こういう話を聞くとなんとも言えない気分になる。

夜9時ごろ、輪番停電の詳しいグループ分け情報をネットで知る。夕方の時点では各グループ3時間程度の停電ということで高を括っていた。情報によると僕の住む横浜市鶴見区は最低でも6時間、長ければほぼ1日停電していることになる(横浜市鶴見区という記載と、横浜市という記載が重複するかどうかわからないので)。家の調理器具は全て電気なので、停電となればご飯を作ることができない。急いでスーパーとコンビニに弁当やパンを求めに行く。しかし、同じような状況の人が多いのだろう。店の中は人でいっぱいで、弁当やパンの類は全て売り切れている。仕方なく、とぼとぼと家に帰る。帰る途中、こうこうと明かりを照らし、盛大な音をたてて営業しているパチンコ屋さんの横を通る。こんなときに何をしているのだろうと思う。
家々の窓に明かりは無く、店にはあんなに人がたくさんいたにも関わらず、住宅街はひっそりとしている。星が見える。

家に着いて、残り2合ほどになったご飯を炊き、おにぎりを作る。少ないけれど、1日は我慢できそうな量のおにぎりができる。
おにぎりを作って安心してから、ふとパチンコ屋さんのことを考える。
パチンコ屋さんが営業していることは、はたして悪いことなのだろうか。そんなことは、ないのかもしれない。
パチンコ屋の店員も、客も、地震の事を忘れているということはないだろう。こういうときだからこそ、できる限りの日常を取り戻そうとするのは、むしろ自然なことなのかもしれない。
「西日本での節電を呼びかける情報はデマで、意味がない。」と友人がSNSに書き込んでいた。僕はそれに対して「無意味ではない。」と書き込んだ。たとえ節電の効果に限界があったとしても、直接被害にあっていない地域の人のそうした心遣いが、被災地の人の何らかの励みになるかもしれないと、その時は思ったから。でも、それもどうなのかと疑問に思う。日本全体が粛々としてしまうのは、いけないだろう。沈んでいる地域があるからこそ、明るくなる地域が必要なのかもしれない。被害がない地域だからこそ、大いに日常生活を営んで、日本を支えるべきなのかもしれない。
その上、その友人の情報は正しく、西日本での節電は実際あまり意味がない。政府の「国民の皆さんに節電をお願いする。」というのは一体何だったのだろうと思う。
とはいえ、輪番節電をしなければならないほどの電力不足に陥っている関東地方において、電力を盛大に消費してしまうような施設は、何らかの配慮をすべきではないかとも思ってしまう。それは、ただ単に僕自身の日常生活に「パチンコ」というものが入っていないからだろうか。何が良いのか、ということがやはり僕にははっきりとしない。

ほぼ1日停電するとなると、飼っている熱帯魚の命が危ない。たかが魚だけれど、されど魚である。自分が命を管理している以上、それを殺すということは、できれば避けたい。
地震の揺れに備えて下げてあった水位を、保温効果上昇の為に、上げる。
水槽のまわりを毛布でくるむ。くるんでいる時に、水槽の中という不自然な環境の中に閉じ込められている魚のことを考えて、少し悶々とする。自然の中にいる生き物を飼うということは、やはり不自然なことで、人間のエゴが含まれていることだと思う。思いはするのだけれど、魚は好きだし、魚がいることで精神的に助けられることがある(こう書くと、なんだかさびしい人みたいですね)。以前、生き物を飼うという行為について考えを書いた。「飼う」ということの不自然さを実感した今でも、その不自然さを感じつつ生き物を飼っている。ほんとうに、何が良いのかということが僕にははっきりとしない。

身の回りは、僕にははっきりとしないことがぐるりとしているのだなと、電球とパソコンの明かりしかない暗い部屋で、思った。
by kobaso | 2011-03-14 01:19 | 退屈小話