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「世界一素敵な学校」について③

 さて、ここまで、「世界一素敵な学校」を否定したいと思う気持ちは何故湧いてくるのかということについて書いてきました。次は、「世界一素敵な学校」での学習はどのようにして成立しているのだろうかと勝手に考えたことを書いていきたいと思います。そこには、「自己肯定のための否定」的な視点が含まれていることも否めません。
 「世界一素敵な学校」の中で、生徒たちが勉強しようと思い立つきっかけは果たして何なのでしょうか。リンゴが落ちた理由が気になったからでしょうか。エンドウ豆にしわがあるものとないものがある理由を知りたいと思ったからでしょうか。おそらく、本を読みたいから字が知りたいといったような理由は多くあると思いますが、前の2つのような理由で勉強したいと感じた生徒は、それほど多くはないはずです。気になって、アメリカのサドベリー・バレー校について書かれた文章を読んでみました。すると、そこにはこうありました。
 「遊んでばかりいても、だんだんこのままではいけないことを感じ取る。」
果たしてこれは、完全なる自発的学習と言えるのでしょうか。恐らくこの学習への動機は、「他者から肯定されることによって、自己の肯定を得ようとしている」からではないでしょうか。それはなんら、学校でいい成績をとって、良い学校に行って、認められようとする従来の学校で往々にして見られるような学習の動機と変わらないのではないでしょうか。ただこれは、悪いこととも言えません。例えば、資格取得の際の勉強の理由は、自分の職に活かすため、スキルアップを図るためでしょう。資格をとれば、その分社会に認められます。社会に必要とされます。そうやって多くの他者からの肯定を得れば、安心できます。大げさにいえば、「生きていていいんだ」と思えます。それは、例えば多くの男性が、いろんな女の人に言い寄られても、浮気するかどうかは別問題だとして悪い気はしないのと同じですよね(たとえが悪いかな 笑)。その学習の動機は、自己の肯定を得ようとするための、当然の動機だとも言えます。
 学習の理由にはふたつあって、ひとつは「自分自身の興味関心のため」もうひとつは今まで述べてきた「他者からの肯定による自己の肯定を得るため」です。「世界一素敵な学校」は後者の理由を上手く「自発的」に引き出させているに過ぎないのかもしれません。また学習は、両者のバランスがうまくとられながらなされるものであるべきだとも思います。「興味・関心」が全く抜け落ちた学習はもはや苦痛でしかないし、かと言ってそれによって他者(他者の数は関係ない)から肯定され得るものでなければ、またしてもそれは苦痛となります。
 なんだか、この学校を否定しているのか肯定しているのかわからない変な文章ですね。事実、わかっていないんです。でも、恐らくは一番初めに書いたように、未知のものが不安で、何かしら問題を見つけてやろうという気持ちになっているんでしょうね。ちなみに、高橋源一郎さんは、自分の子どもを「普通の学校」に入れることにしたと言っていました。「みんなと同じ経験をさせたい」とのことです。
 あと、なんか「自己の肯定のための否定」とか、「他者の肯定による自己の肯定」とか、「自己の肯定」を強調してしまったけれど、人間が「自己の肯定」ばかり考えているというのは短絡的だし、むなしいことだね。「自己の肯定」を「否定」することもまた、「自分ばかり考えてるわけじゃないんだよ僕は」という「自己の肯定」につながってしまうという考えは、少し皮肉が過ぎるかな。
by kobaso | 2012-01-20 03:08 | 退屈小話

世界一幸福な学校について②

さて、あらためましてこんばんは。kobasoです。
 さきほどの文章を読んで、どう思われましたか。なかなかに興味深いですよね。本当にそんな学校があるのかと思ってしまうし、とても魅力的に感じる一方で、なんとなくの疑問も感じてしまいます。しばらくは、その疑問が何なのかということが判然としませんでした。
 しばらくぼんやりと考えていたのですが、友人がまた、面白いことをツイートしていました。「大学の授業で高橋源一郎の言うアメリカの学校を取りあげたことがある。そのとき皆で話し合う時間があって、興味深いことにその授業に出ていた20人弱はほとんど『この学校へ子どもを通わせたいか』という問いにNOだった」と言うんです。面白いですよね。
 何故ほとんどの人が「NO」と答えたのか。僕は、最初この学校に自分ならば行きたいと感じました。ただ、子どもを通わせたいかとなると、どうなんだろうと思ってしまいします。おそらく通わせたくないんじゃないかな。ほとんどの大学生と同じように。それは、全く自分の経験したことのない、それも、その学校の学習方法は自分の経験した学習方法とは正反対の学習方法に感じられて、子どもが果たしてそれで上手くいくのかということへの不安が大きいからだと思います。
 また、別の友人はこうも言いました。
「たぶん、その学校の教育方法を認めてしまうと、今まで自分が辿ってきた道を否定してしまうことになる。もしくはそれに近い形になってしまう。その道を辿ってきて、今の自分があるわけで、自分の道が間違っているわけではないということを認めたい気持ちが、多分にあるんじゃないか。」
「それまでに辿ってきた自分の道、現在の自分に、自惚れるほどではないにしろある程度の満足はしている。子どもが自分と同じような道をたどれば、ある程度には成長するだろうという思い込みもあるのかもしれない。」
 なるほど、なかなかに納得のいく言葉でした。自分にとって既知のものと未知のものがあるならば、既知のものの方は予想が立てやすく、また子どもができた際にもアドバイスや補助がしやすいものです。また、自分の現在を肯定しようとする気持ちが少なからず働いているとしたら、今まで辿ってきた自分の道を、子どもにも選択させようとすることは当然のことであるかもしれません。
大学生ともなれば、まだまだ若造に違いはありませんが、多少は自分のそれまで辿ってきた道を考えて、それなりの自己評価を下せる段階には至っていると思います。それでは、義務教育の真っただ中にある小中学生や、受験勉強に追われる高校生ならば、この「世界一素敵な学校」に対してどのような意見を持つのか気になりませんか。僕は気になりました。なので、何人かに聞いてみました。
 質問としては、「アメリカにある学校がある。その学校は幼稚園児から19歳までの子が通う学校なんだけれど、普通の学校とは勉強の方法が違って、自分が勉強したいと思った時に、自分の勉強したいことを教えてもらえる。例えば、○○さんが九九について勉強したいと思ったら、先生に九九を教えてくださいと言って九九を習う。海の生き物が知りたいなら、海の生き物について教えてくださいと言って教えてもらう。やりたいと思ったことだけを勉強すればいい。嫌いなものは、勉強したくなければ勉強しなくてもかまわない。ただ遊んでいればいい。ただ、ルールがあって5分の遅刻を2回以上してしまうとその授業は永遠に受けられなくなってしまう。学力は、その高校を出た時にはふつうの高校をでた人に比べても高い学力を持ってるんだって。もし、それと同じ学校が日本にあるとしたら、その学校に行きたいと思う?それとも普通の学校に行きたいと思う?また、自分に子どもができたらその学校に行かせたいと思う?」という、だいぶ省略したものですが簡潔にまとめて聞きました。
以下がその結果です。

小2 男子「その学校には行きたくない。遅刻のルールがめんどくさい。子どもができたらっていうのはちょっとよくわかんない。」
小6 女子「ほんとに自分の好きなことだけをしていいなら、行きたい。でも、自分の子どもは行かせたくない。それでちゃんと勉強できるのか不安だから。」
中1 男子「行きたい。楽しそう。自分の子どもは行かせたくない。不安だから。」
中3 女子「迷うな。幼稚園から小3くらいまでの間なら楽しそうだけど。小学校高学年くらいからは行きたくない。自分の好きなことだけやって、基礎学力が付くかどうか不安。子どもができたら子どもに任せるかな。たぶん行かせないけど。」
中3 女子「基礎学力が付くかどうか、自分から学ぼうとできるかどうかが不安だから、行かない。行きたくない。子どものことは、子どもができてからじゃないとわからない。でもたぶん、行かせない。」
中3 男子「行きたくないですね。ある程度、全体的な知識がないとわからないこともあるじゃないですか。数学わからないと理科もわからないし。そういうこと、自分からは勉強しにくそうで。子どもも行かせたくないですね。同じ理由で。」
高1 女子「難しいな。でも、行きたい。人とは変わったことがしたい。子どもも行かせたい。人とは変わったことをさせたい。」
高1 男子「絶対行かないっすよ。ってか俺行っちゃダメっすよ。先生ならわかるっしょ?俺行ったら勉強とか絶対しないすもん。そんくらいわかってますよー。子どもは、その子どもの性格にもよりますけど、たぶん俺と似てるんで行かせないですね。」
高3 女子「行きたくないですね。遅刻しない自信がないです。子どもも行かせたくないです。自分の子どもが、勉強のこと、知ろうとするかがまず不安です。」

 データとしては不十分ですが、面白いことに、行きたいと答えたのは9人中3人でした。また、自分の子どもも行かせたいという人は、9人中1人でした。
塾に来ている子に聞いたので、このような結果になったのかもしれませんが、行きたくないと答えた子の多くの理由が「基礎学力が付くかどうか不安」「勉強しようとするかどうかわからない」というものでした。この解答の背景には、「基礎的な学習は、自発的には起こりえないものだ。」「勉強はさせられてこそするものだ。」「苦しみを乗り越えながらやっていくものが勉強だ。」という考えがあるのかもしれません。また、中3の男の子が答えている「関連する教科を自分では発見しにくい」というのは、納得のいく理由です。数学ができなければ理科はできないですし、化学も物理も生物も、いたるところでリンクしあっています。文学もまた、その当時の時代背景と相互に関係しながら成立しています。そういったものを1から発見し、自力で学んでいくのは難しいことですよね。まぁただ、これは指導する先生次第でなんとでもなる問題なのかもしれませんが。この問題を挙げるのも、今の日本の教育が分野ごとに独立してカリキュラム化されているからこそのことなのかな。
 子どもについては、未だ存在しない人間のことなので、なかなか考えづらく、また信頼もしにくいようでした。実際、自分もそう思います。まだ存在しない人間のことを考えるのはとてもむずかしい。
 また、これも友人の言葉なのですが、「世界一素敵な学校」に比べ、現代の日本の教育もそれほどまでに批判される必要は無いのかもしれません。小学校から高校までは確かに、自分の意思とは無関係に様々な教科の学習をさせられます。しかしそれは、選択肢の蓄積とも言えるものかもしれません。小学校から高校までの間に、科学の世界を知り、言語の世界を知り、社会のことを知り、芸術のことを知る。その選択肢の中から、自分の興味のあるものを選んで、希望し、学力があれば自分の学びたい分野の大学に行くことができる。決して、日本の教育は自分の好奇心の向く学習ができないというわけでもないのかもしれません。
 ここまで考えてふと思ったのですが、「世界一素敵な学校」を否定しようとする気持ちは、「他を認めることが、自己の否定につながる」からではなく、「他の否定を行うことで、自己を肯定できる」から起こるのかもしれません。生徒の言っていることや、自分の考えていることをまとめていると、なんとなく、そんな気がしてきました。『「世界一素敵な学校」の勉強の方法はおかしい。今自分が受けている教育の方が、たくさんの知識がつく。こうやって辛い思いをしながら勉強をしている自分は頑張っている。』と、無意識に自分に言い聞かせているのではないかとも感じられました。その感情が悪いものだとは思えませんし、受験勉強まっただ中の生徒が、今自分の受けている教育方法を否定しようとする方向に傾くと、色々なものが崩れていってしまう。これは当然の自己肯定の感情だと思います。

ちょっと休憩。
by kobaso | 2012-01-20 02:29 | 退屈小話

「世界一素敵な学校」について

こんばんは。kobasoです。先日、ツイッター上で高橋源一郎さんが興味深いツイートをされていました。教育に関する話なのですが、いま自分が、教育を受けている立場であり、アルバイトや課外活動ながらも教育を行っている立場であり、将来教育を行う立場となる可能性があることもあり、とても考えさせられる内容でした。
 本当は、もう少しじっくりと考えてからここに書こうかと思っていたのですが、そればっかり考えていては学校の課題も終わりませんし、なんとももやもやしてしまうので、拙いながらも今考えていることを書いておこうと思いました。恐らく読みにくい長い文章になりますが、興味のある方はお付き合い頂けると嬉しく思います。
 まずは、高橋源一郎さんのツイートをまとめたものを、下に載せます。原文そのままです。僕の文章は、恐らく1時間後か2時間後にアップされると思います。

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 今晩は。ひさしぶりに「小説ラジオ」をやります。今年になって一回目。間隔が開いてしまうので、毎回、説明しなきゃなりません。一つのテーマを決めての連続ツイートです。ツイートしたい、と心から思えるようなものを決めるまで時間がかかってしまいました。  
 今夜は、「教育」についてです。最近、ある学校のことを知り、深い衝撃を受けました。その学校は、ぼくにとって、見たことも聞いたこともない「教育」をしていました。ほんとに、驚いたのです。
 たぶん「教育」に詳しい人なら知っているだろう、その学校は「世界一素敵な学校」と呼ばれています。そこでは、いわゆる「学校教育」らしいことはなにひとつされていない。でも、それ以上の学校は存在しないようにぼくには思えたのでした。
 そんな学校は他にもある。日本にも、世界中のあちらこちちにも。ぼくたちの多くがそのことを知らないのは、たぶん、社会が知らせないようにしているから。なぜなら、そんな「ありえない」ことが可能なら、困ってしまう人たちがたくさんいるはずだから。
 ぼくは、この(これらの)学校を知り、その「教育」内容を知るにつれ、深い関心を抱いた。その理由の一つは、ぼくには、これから「教育」に向う5歳と7歳の子どもがあるからであり、もう一つは、大学で、学生たちを「教育」しようとしているからだ。
 その学校は、アメリカ・マサチューセッツ州にあるサドベリー・バリー校。ここでは4歳から19歳までの「子ども」たちを受け入れている。日本でいうなら、「幼稚園年中」組以上から高校(もしくは大学1年)程度までだ。写真で見ると、この上なく美しい風景の中に、「校舎」がたたずんでいる。
 この学校には、カリキュラムがない。試験がないから、採点はないし、通知表もない。学年もクラスもない。いわゆる「教室」もない。当然のことだけれど、卒業証書もない。後で詳しくいうことになるかもしれないが、「先生」も「生徒」も存在しない。あるのは、子どもたちの「完全な自由」だけだ。
 この学校では、たとえば「問題児」が歓迎される。彼・女が、問題を起こすのは、「闘い」を放棄していないと考えるからだ。その子に、反抗するだけの元気があることは、とても素晴らしいことだからだ。
 いちばん驚くのは、この学校では、「読み」「書き」の「授業」さえないことだ。だから、8歳になっても9歳になっても、字が読めない子さえイル。なのに、だ。この学校では重視されてはいないことだけれど、最終的に、ここを卒業した子たちの「学力」は、ふつうの学校より高い。
 通常の「教育」を一切しないこの学校に対して(それなのに、たいていの子どもは希望の大学に進学する)、そんな「奇跡」のようなことがあるはずがないと、「現実主義者」たちは批判してきた。けれども、最後に音をあげるのだ。なぜだかわからないが、ここではなにもかもうまくいってしまうから。 
 「教育」はしない。けれども、子どもたちがなにかをしたい、と思った時のための「完全な準備」が、ここにはある。その「準備」は、カリキュラムに従って、「教育」を与えるだけの学校より、遥かに困難だ。実例をあげてみよう。
 この学校には、決まった「授業」はなにもない。だから、子どもたちはずっと、好きなことをする。ずっと釣りをしたり、ずっとゲームをしたり。でも、おとなたちはなにもいわない。ただじっと待つのである。ある日、9歳から12歳の子どもたち12人が、ひとりの「おとな」のところにやってきた。
 「足し算、引き算、掛け算、割り算、算数ならその他なんでも教えてくれと頼んできたのだ」「本当はやる気ないんじゃないの?」「いや、本気だよ。算数をマスターしたいんだよ」。というわけで、いままで算数を習ったことのない子どもたちと「おとな」は「協定」を結ぶのである。 
 その「協定」の中身は、☆時間を守ること。☆約束の時間に5分でも遅れたら、その日の「授業」はなし。☆それが2回続いたら、その「授業」は永遠に中止。その「協定」を守ることを誓って、「勉強」が開始される。その集まりを、ここでは「クラス」と呼ぶのである。
 さて、その結果はというと、通常6年かかる、算数の全教程が、二十四週、週2回30分ずつ、トータル24時間で終了してしまう。これがいつものペースだ。そして、子どもたちは一度も約束を破らない。彼・女たちを教えた「おとな」は、こういうのである。
 「教科それ自体は、そんなに難しくないんです。では何が算数を難しく、ほとんど不可能にしているかというと、嫌で嫌で仕方ない子どもたちの頭に、無理やり教科を詰め込んでいく、あのやり方のせいです。…毎日毎日、何年もの間ずっと、少しずつハンマーでたたき込んでいけば…」
 「さしもの子どもたちもいずれ覚えるだろう、というあの教え方です。うまく行くわけがない。だから見てごらんないさ。このくにの六年生の大半は、数学的な意味で文盲です。結局、わたしたちがなすべきこと、それは、子どもたちが求めたとき、求めるものをあたえることなのです…」
 「そうすれば、まあ、二十時間かそこらで、彼・女たちは、きっとモノにしてしまいます」。繰り返しいうが、通常6年かかる算数の全教程を教えるのに、この学校では、二十時間かそこら以上かかったことは、いままでも一度もないのだ。
 「読み」「書き」に関する話はもっと面白い。これは、自分の子どもをここに預けた、この学校の主催者の告白。「学校のほかの子どもたちと同様、娘が読むのを教えてくれと頼んでくるまで、あるいはまた自分で読めるようになるまで、わたしたちは待ったのです。待って、待って、待ったのです」
 「ところが彼女は6歳になっても読まないのです。それも良しとしなければならないでしょう。世間並みなのですから。が、彼女は7歳になっても読み始めません。こうなると、親としてはやはり心配です。とくに、おじいちゃん、おばあちゃん、叔父さん、叔母さんたちが不安の表情を浮かべます」
 「ついに8歳にして読まず。こうなると、もはや一家、仲間うちのスキャンダルです。わたしたち夫婦は、まるで非行パパと非行ママ。「それでよく、学校やってられるわね」というわけです。娘が8歳になっても読めないのに対策もとらないで、よく学校をやってますなんていってられるわね、」
 「そんなのまともな学校じゃないわよ、非難の言葉を浴びせかけてくるのです。でも、サドベリー・バレー校ではだれもそんなことを気にしちゃいません。確かに、8歳になる友だちの大半は読めるようになっています。でも、まだ読めない子も何人かいるのです。そんなこと娘は気にもかけていません」
 「元気一杯幸せに、毎日を過ごしているのです。娘が「読みたい、読もう」と決心したのは9歳のときでした。どんな理由でそう判断したのか、わたしにはわかりませんし、娘本人も覚えていません。まもなく、9歳と6カ月で、彼女は完璧に読めるようになりました。なんでも読めるのです」
 「もはや彼女はだれの「心配の種」でもなくなったのです。もちろん、もともと、「問題児」でもなんでもなかったのですが」
 いったい、「学校」とはなんだろうか。動物たちは、子どもを「学校」にやらなくても、きちんと子どもたちは成長して、成体になる。そして、人類もまた、誕生して以来、ほとんどの期間を、「学校」なしで過ごし、なんの問題もなかったのだ。
 現在のような「義務(強制)教育」が一般化したのは、産業革命以降の200年にもみたない期間にすぎない。それまで、「教育」はあったとしても、一部の特権階級のために「知識」を「教授」するものでしかなかっのだ。
 産業革命以降、「義務(強制)教育」が生まれたのは、工場で働く、「機械のコマ」が必要だったからだ。それに必要なのは、きわめて不自然な「自動人間」になるためのスキルだった。そのために、 どうしても必要なことがあった。それは、子どもたちの「自由な精神」を破壊することだった。
「一カ所にじっと座っていたい、並んでいたい、言われた通りのことをいつもしていたいと、思い込ませなけれはなりません。駆けっこをするなど、もう許されません。もはや自由はないのです。したいことをしてはならない。好奇心の導くままに学ぶなんて、許されない。ただいだ厳しい規律を…」
 「…受け入れていればいい。誰もが同じことを、いつも必ずしている。適応しなけれは、罰せられるのです」。だから、ある人は、ぼくたちが子どもを通わせている学校のことを、こう呼んだのである。「昼間子ども強制収容所」。
 この学校の根底にあるのは、「人間には自己教育への鮮烈な欲求がある」という考え方だ。人間には、おとなになりたい、必要なことをどうしても知りたい、という本能が埋め込まれている。「教育」とは、本来、誰もが持っているはずの、そんな「自己教育」の本能が発動するのを助けることだ。
 けれども、現実の「学校」は、ぼくたちが本来もっている「自己教育」の本能を忘れさせ、ただ、知識が詰め込まれるのを、口を開けて待つことしか知らない、か弱いニワトリにしてしまったのである。
 子どもたちを「おとな」として遇すること。子どもたちに「自分の主人は自分なんだ」と気づかせること。子どもたちに「自分の人生を自分の意志で歩ませること」。だから、この学校では、「自己責任」は、もっとも美しく、峻厳なことばでもある。だが、この学校の真の秘密は、他にある。
 この学校でもっとも驚くべきことは、実は、いままでに書いた「教育」の「内容」ではない。この学校の「統治」のシステムだ。この学校では、すべてが、校則も、予算も、学校運営も、「教師」の採用・解雇まで「全校集会」で決められる。そこでは、おとなも子どもも同じ1票の権利があるのだ。
 4歳の子どもも「校長」も同じ1票。それ故、学校スタッフではなく、子どもたちの意志がもっとも優先される。この学校の「教育」を支えているのは、この、ルソー的といってもいいかもしれない、ラディカルな民主主義の考え方だ。
 「権力や権威がもたらす恐怖--これこそが、わたしたちがこの学校から一掃しようとしたものなのです。…わたしたちは決めたのです。生徒であれ教師であれ、親であろうと訪問者であろうと、だれ一人として、人間の権威を恐れなくてすむような学校を作ろう、と。そうすれは多分…」
 「…年齢の違いや性差、地位、知識、出自の違いなどお構いなく、だれもが相手の目をストレートに見ることができる、と考えたのです。…アメリカは、統治のあらゆる形態がデモクラティックな国です。そういう国にあって、学校をデモクラティックに運営していくことは理に適ったこと、と…」
 「…わたしたちは考えました。最小の町から連邦政府レベルまで、あらゆる機構がデモクラティックなコンとロールを受けるようデザインされてきたのです。学校がなぜそうであってはならないのか、とわたしたちは自分自身に問いかけました。そして考えれば考えるほど、学校もまた…」
 「…そうでなければならない、と思うようになったのです。デモクラティックな学校コミュニティーの大人たちは、自分たちが享受する市民的基準と同じものを、学校生活にも適用できるはずです。子どもたちもまた、民主主義の生活を構成する諸原理、諸実践の中で育てられるべきでしょう…」
 「…そうすることによって、子どもたちは、成人に達する以前に、責任ある社会的市民性なるものを自然に身につけることができるのです。なにしろ、そういう生活を、学校コミュニティーのなかで、毎日経験するわけですから」
 目指されていたのは、「学校」ではなかった。人間が、その可能性をもっとも発揮できると信じられる、民主主義てき共同体だった。そして、その中に、その必然として、子どもたちの「学校」が、世界でもっとも素敵な、と呼ばれる学校が生まれたのだ。
 だから、民主主義の「核心」は、「教育」なのだ。子どもたちに、どんな「教育」を与えるかが、その共同体の民主主義の成熟度を示すことになるのかもしれない。いや、「教育」の「核心」は、、実は民主主義にある、といっても同じことなのかもしれないけれど。
 すべてを解決する魔法の解決策などないのかもしれない。けれども、ぼくには、子どもたちのために考える義務があるように思ったのだ。以上です。一度では語り尽くせない問題でした。聞いてくださって、ありがとう。
by kobaso | 2012-01-20 01:09 | 退屈小話

読書メモ

おこんばんは。レポートに疲れてちょっと落書き。
ここ1か月くらい、紹介したいー!!って思う本を少し読んだりしたんですが、なかなか更新できなくて、
忘れないうちに最近読んだ本をメモとして残すだけ残しておこうと思いました。

「天国はまだ遠く」瀬尾まいこ 
「幸福な食卓」瀬尾まいこ おすすめでした。
「強運の持ち主」瀬尾まいこ
「僕は、そして僕たちはどう生きるか」梨木香歩 いかにもな題名だけど、面白かったです。
「あなたが、いなかった、あなた」平野啓一郎 初めてこの人の本読みました。面白い。
「蛇を踏む」川上弘美
「茗荷谷の猫」木内昇
「カッパでもどうにかやっている」アランジアロンゾ 誕生日プレゼントで貰いました。ありがとう。これはね、びっくりした
「ジャージの二人」長嶋有 映画も好きだけど、原作も面白かったです。
「英語の質問箱」里中哲彦 友人のブログで紹介されてた本。英語が苦手な人でも面白い。小話が特に。

また気が向いたら感想書いていきたいと思います。
by kobaso | 2012-01-16 01:12 | 読書小話

ななのひとりごと4

散歩に連れていかれました。

人間だか河童だかよくわからないひとは「いい天気だから」って言っているけど、
西の方の空は暗いし、なんだか寒いし、雪のにおいもするんだけれど、ひっぱられるままに進んでいきました。
歩いてるうちに、歩くのが楽しくなって 天気の心配もしなくなりました。となりで歩くひともそんな感じがしました。みずうみに行くみたいです。

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道端に「イガイガしたなにか」が落ちていました。においをかいでからくわえてみたけど、なんか痛かったのですぐペッてしました。

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よりみちもしました。
だれもいないね。
空がくもってきたんじゃない?

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みずうみに着きました。
今日のみずうみは、なんだか不機嫌で緑色をしていました。
風がとてもつよく吹いていました。
犬にはよくわかりませんが、となりのひとは「なんか海みたいだね」って言っていました。
海っていつも不機嫌なんですか?

鳥やら魚やらは、どこかでじっと隠れてるみたいで、犬ととなりのひと以外にはなにもいませんでした。

雪まじりの雨がたくさん降ってきました。

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雨宿りです。

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そろそろ帰りませんか?

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帰ろうとしたら、となりのひとが立ち止まって、黒い機械で空をばしゃばしゃ撮っていました。
虹って言うらしいです。
犬には、虹がどれのことを言っているのかよくわからなくて、ちょっと不思議でした。
犬の目には、ただどんよりした雲があるだけでした。ぼんやり光っているようには見えた気もするけれど。

帰りは、くるまが迎えに来てくれました。くるまに乗ると、暖かくて濡れなくて、よかったです。
車の中でぶるっとすると、となりのひとがちょっといやそうな顔をしました。
ひとって全く、勝手なものです。
by kobaso | 2012-01-03 21:19 | 退屈小話

ななのひとりごと3

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ここのところ、人間だか河童だかよくわからないひとは、黒い大きな機械で犬に向かってばしゃばしゃやっています。写真っていうらしいです。
犬がひとりで考えごとをしているときでも、ばしゃばしゃと撮ります。
でりかしーってものをわすれたんでしょうか。人間の世の中ではこういうの、すとーかーだかすかーとだかわからないけど、なんかこうそういうのになるんじゃなかったっけ。

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なんですか。

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だからなんなんですか。
犬にはなにがおもしろいんだか、さっぱりわかりません。
by kobaso | 2012-01-03 17:12 | 退屈小話

ななのひとりごと2

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みずいろのくまが、窓の向こうでぶらさがってました。
みずいろのくまはいつだってにんまりとわらっています。にんげんのおねえさんにかじられてもたたかれても、いつもにんまりわらっています。
ものすごくおこったり、反対にものすごくわらったりしたところをみたことがありません。
犬は、ボールを見たらハフハフしてしまうし、猫をみたらおこっちゃうけどね。
みずいろのくまさんには、「そういうこと」がむずかしいみたいです。
いつも何を考えてるのかな。なにも考えていないのかもな。
by kobaso | 2012-01-03 17:07 | 退屈小話

ななのひとりごと1

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おひさしぶりですね。犬です。名前はななといいます。琵琶湖の近くにすんでます。
東京から、人間だか河童だかよくわからないひとがかえってきました。
すこしは大きくなってるのかなとおもってたけど、あんましかわってないね。
犬も、あんましかわってないけどね。これでも少しやせたんですよ。
まあ、どうだっていいんですけどね。

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いしのタイルの上にすわって、置物のまねもできるようになったんですよ。

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こうやって物思いにふける顔だってできるようになったんですよ。おとなになったでしょう。
何を考えてるかって?
まあ、なんだっていいんですけどね。
by kobaso | 2012-01-02 14:50 | 退屈小話