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原発事故について①

前学期に、原発問題に関する授業をとっていて、そのレポートを書かなければいけないのですが、なかなか筆が進みません。自由形式で、それほどしっかりしたレポートでなくてもいいのですが、書くことが難しくってなんだかわからないー。ということで、ブログに書くつもりでレポートを書いていきます。そしてついでなので、ここにも掲載していこうと思います。
ちなみに、参考としている文献は、「ポスト3・11の科学と政治 中村征樹 編 ナカニシヤ出版」「科学 岩波書房」です。


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●はじめに

 1学期間、科学技術社会論の授業を通して原発をめぐる事項について考えてきた。授業中のディスカッションを通して、今まで考えの至らなかったことや知らなかったことなどが見えてきた。しかしながら、恥ずかしながら私は忘れっぽい性質なので、この授業で考えたことも日々の研究生活をおくる中で忘れていってしまう可能性がある。そこで、総括と言う形でこの授業を通して学んだこと、考えたことをまとめ、記録として残し、提出したいと思う。

●食品の放射能汚染

 食品問題は、一次産業の保護や海外との関係もあり、様々なリスクが重なる「台風の目」になったといえる。
 
 食品の放射能汚染を考える上で、問題となることのひとつは、正式な食品の安全基準値がなかったことである。また、水道水の水質基準にも「放射性物質」という項目はなかった。これは、今回の事故で明らかとなった、我が国が想定すべきことを想定してこなかったことの典型である。3.11まで、原子力に関する事柄は経済産業省の原子力安全・保安院が行っていた。これは、原子力発電を推進する資源エネルギー庁と同じ省に所属しており、原子力を推進する側と帰省する側の間で人事異動が行われ、規制が機能しないような状態に陥っていた。このことが、上記の一因となっていると思われる。
 
また、中央政府からの通達に基づき各自治体が放射能検査を行ったところ、翌日には暫定基準値を超える検体が次々と検出され、不安が広がった。これに対し、政府を代表する枝野官房長官(当時)は、「ただちに健康に影響を及ぼす数値ではない」として、事態の沈静化を試みた。また放射線防護を専門とする専門家や、報道機関も、行政の発表をサポートするトーンが目立った。そこでは、医療被曝等との比較により安全性を強調する語り方が多くみられ、共通して「正しく怖がる」というフレーミングが用いられた。しかしながら同時期、ネット上(twitterなどのsns等)では、マスメディアとは対照的に、専門家の発言を疑問視する声があふれるようになっていた。海外の研究機関が公表した拡散予測シミュレーションへのリンクが拡散されたり、専門知識を有する人々が共同で情報を発信したり、独自に測定した線量マップが次々と公開されたりと、多くの議論が展開された。このようなかつてないほどの活況を示したネット空間と、マスメディアの、特に原発事故の報道姿勢の慎重さは対照的であり、そのギャップがまた、新たな緊張の源となった。
しかし、安全性を強調するような情報を発信したマスメディアを批判するのは、いささか短絡的であるように感じる。問題は、いかに正しい情報が流され、いかに正しく受け止められるかであるように思う。「安全性を強調した」から問題なのではない。理想としては、「安全性を強調する論調」と「危険視する論調」を比較・検討し、何が正しいのか、今何がわかっていて、何がわかっていないのかを十分に検討するような報道がなされるべきであったのだとは思うが、事故発生から短時間のうちにそのようなことを報道することは、少し無理があるように思う。その間に、個の責任の実感があまりないネット社会において、「危険視する声」や、「危険視する姿勢を危険視する声」が強い論調で一気に広まってしまい、受け取る側が何を受け取って良いのか混乱する事態に陥ってしまったことが大きな問題であるのではないか。そのような、ネット社会の膨大な声を指して「正しく怖がる」というようなフレーミングが用いられたのだと思うが、マスメディアへの信頼もすでに揺らいでいて、「正しさ」が何か分からなくなってしまっていた状況が生じていたのではないだろうか。
 
 また、政府は事故当初、食品の安全性を強調していたが、次第に出荷制限がかけられるようになり、制限区域が広がり、さらには摂取制限がかけられるようになった。それでも、「基本的に流通しているものに健康被害を与えるものはない」と説明し、発言があいまいになった。これらのことから、「今言っていることもいずれ覆る」と政府の発言を市民が信用しなくなっていった。
 このような、政府の発言への信頼の失墜には、政府の説明の仕方に問題があったとも考えることができるが、これは低線量被爆の問題とも関連することであるので、次項の「低線量被爆問題」で記していきたいと思う。
by kobaso | 2013-07-30 21:35 | 退屈小話

蛍川/泥の河

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蛍川 / 泥の河 宮本輝 新潮文庫

中学・高校の通学路の途中には川があって、その川を渡す橋の上を、毎朝毎晩、自転車で通っていました。当時、僕はその川を橋の上から見下ろすのが好きでした。朝は朝日が魚の鱗を照らす光景を見るのが好きだったし、夜の、何も見えない橋の下を見下ろすのも好きでした。僕の地元は田舎だったので、橋の上も川沿いの道も、ぼんやりとした街灯がいくつか灯っているだけで、夜の川は本当に真っ暗でした。見下ろすと、一面の闇が見える。曇った日の夏の夜は、月明かりもなく、生き物みたいな生ぬるい風が橋の下から吹いてきて、川に吸い込まれそうな感覚に襲われました。でも、恐怖はあまり感じなかった。あまり「死」がそこにあるとは感じられなかったからかな。なんとなく、「生きた」闇がそこにあったような気がしていました。鬱々として、それでいて少しの安心もあって、引き込まれていきそうな、不思議な感覚。宮本輝の小説を読むと、いつもその橋の上から川の闇を見下ろしているような感覚がやってきます。

この蛍川も泥の河も、決して明るい話ではなくて、鬱々とした陰気な感じのする話です(と感じました)。でも、救いようのない絶望があるわけではない。これらの話の中には人の死も、不幸も、汚らわしさも、沢山詰まっているんだけれど、真っ暗な谷底にいる感じはしない。なんというか、橋の上から暗闇を覗き込んでいる感じ。そしてなんだか生温かい。読み終わった後に、ちょっと安心している自分がいたりもする。全然安心できるような内容じゃないのに。
それは、ひとつは、普段日常で感じるそれなりに重たい鬱々しさを、宮本輝の小説の中に投げ込んで、発散できるからという理由があるからかもしれません。気分がふさいでいる時に、変に明るい話を読むよりも、鬱々しい話を読んだ方が安心できるっていうこともあるのかもしれない。不思議だねぇ。
うざったいような光があるのなら、心地よい闇も、あるのかもしれないね。
by kobaso | 2013-07-29 22:07 | 読書小話