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タカラガイ

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今僕が通っている大学には面白い人達がたくさんいて、友人と海を歩けば大抵の生き物の名前はわかってしまう。遠くを飛ぶ海鳥の名前、岩にびっしりとつくフジツボの名前、タイドプールを漂うウミウシの名前、奇妙な形をした海藻の名前。そして、その生物にまつわる話もすごく面白い。
おかげでこの大学に入る前と随分砂浜の歩き方も変わってきて(もっとも、それまで海なんてあまり行かなかったけれど)、ついつい足もとの生き物や生き物の痕跡を探して歩くようになりました。

サークル活動の一環で、ウミガメの死体を探して砂浜を歩いていた時、貝類に詳しい先輩が、ふと足元の貝殻をとって、
「タカラガイ。昔よくコレクションしてたなあ。」
と言って、親指くらいの大きさの貝殻を手渡してくれました。その貝は茶色地に白っぽい斑点模様で、研磨した後の鉱物みたいにテカテカと光っていました。
その光沢と「タカラガイ」という名前が、僕の少年じみた好奇心をかきたてて、それ以来、砂浜を歩く時にはなんとはなしにタカラガイを探しながら歩いています。

タカラガイは「タカラ」というだけあって、古代中国やアフリカでは貨幣として用いられていたようです。経済や文化人類学には全く造詣がないのでわかりませんが、たかが貝殻が貨幣としての信頼を得ていたと思うと奇妙な感じがしてしまいます。ましてや、どういう成り行きで貨幣としての信頼を得たのか、その最初の場面を想像すると不思議な気持ちになります。タカラガイマニアの物好きな王様でもいたのでしょうか。
しかも、中国とは遠く離れたアフリカでも貨幣になっていた。なんだかよくわからないけれどロマンチックです。

海の砂浜には、たくさんのものが打ち上げられています。人間の出したゴミも、生き物がたくさん着いた流れ藻も、貝殻、フジツボ、魚の死骸、ウミガメの死骸、折れたサンゴ、流木…
その漂流物の山の上を、まるでジャンク屋のような気分でタカラガイを探して歩くのも、なかなかに楽しいものです。
by kobaso | 2013-08-25 22:58 | 退屈小話

原発事故について⑤

●今後の対応
 日本は今回の原発事故を経験し、原発の再稼働・増設は見直さなければならず、行く行くは今ある原発も廃炉にし、脱原発の路線をたどることは必須であるように思う。しかしながら、それは即座に出来るものでもなく、使用済み燃料問題や、どのように廃炉にするかといった問題もあり、今まで以上の研究が必要とされる。しかしながら、仮に使用済み燃料問題が解決し、放射能物質の取り扱いに関する研究が進んだ場合、「原発が安全に扱えるようになった」という認識が広がってしまう可能性もある。人間は忘れやすい生き物で、今後原発とはまた別の問題(例えば憲法9条改定のような)が浮上すると、以前まであった別の問題に対する意識が薄れてしまうものである。原発問題を解決するためには、まず脱原発を明言することが今の政府には求められているのではないかと思う。
by kobaso | 2013-08-23 12:12 | 退屈小話

原発事故について④

●理科教育における問題
3.11以前の日本の小・中学校の理科では、放射線と原子力に関する教育内容が正面切って取り上げられることが少なかった。また、放射線の取り扱いは、1969年以来40年間、中学校の理科学習指導要領に含まれなかった。そのため、現在の中学校教員の多くは(少なくとも理科教員以外の教員は)それを教えた経験だけでなく学んだ経験もない。そのうえ、「科学技術と人間」が中3の終わりに教えられ高校入試にあまり出ないゆえに、実際に中学理科の授業で放射線と原子力に関する問題が取り扱われることは少なかったと言える。
文科省の行っている原子力問題に関する教科書検定意見について検討してみると、原発に肯定的な姿勢がうかがえる。例えば、『①原子力発電について短所を述べ自然エネルギーについて短所を述べていないような場合、エネルギー資源についてはそれぞれの長所と短所を記載せよ』『②原子力の安全性への懸念についての記述がある場合、「安全性」が問題なのではなく、「安全管理」に課題がある、あるいは「一部住民に安全性に対する不安がある」とせよ』『③各国とも原発の建設に慎重になってきているという記述がある場合は、「各国の対応は様々」とせよ』のようなものである。日本原子力学会も小中学校教科書の点検を行っており、原発の存在を前提としたコメントが多々見られる。例えば、『①「日本の発電の1/3は原子力」という記述に対しては「正確」である』『②原発は、「CO2を排出しない」一方で、「安全性や廃棄物の処分場などの課題がある」などと併記してあれば、「中立的」である』『③「安全面に不安」とするより「安全性について解決すべき課題が残っている」とするほうが適切』『④ウランの埋蔵量にも限界があるという記述に対しては、「核燃料サイクルに触れることが望ましい」』のようなものである。
 原発事故以前の放射線教育のどこが間違っていたのかを考えてみると、私は主に3つの問題があったのではないかと考える。それは、①文科省の偏った教科書検定、②教科書に対する絶対的な信頼、③教育そのものが「受験対策化」してしまっていたことである。
①については、前述した主張の中に表れている。「原発は国策である」という立場から、中立性を欠いた教科書検定がなされており、教科書だけを読んで判断するならば、原発に対する反発は生じる余地がない。
②について、「教科書を疑う」という考え方があれば、原発存続・発展だけを視野に入れる考え方からは脱却できる。しかしながら、過去の教育現場でそのような考え方があったとは考えにくい。「教科書」は「解答」であって、揺るぎないものとされていたのではないか。
また、③について、教科書への絶対的信頼はどこからきているのか考えてみると、一つの原因として教育そのものが「受験対策化」してしまっていることが考えられる。勉強の目的は「良い高校・大学に行くため」であって、物事の本質を見ようとするものではない。だからこそ生徒も教員もある問いに対して、単純明快な「解答」を求める姿勢となってしまうのではないか。そして、その「解答」のよりどころとなるのが「教科書」であって、教科書に記載されている事柄を自身の解答に用いれば、入試で点数を引かれることはあり得ない。
ある団体が原発を推進しようとすることそれ自体は健全なことであるように思う。しかしながら、問題は、そういった一つの声しか教育現場に反映されず、その声を絶対的に正しいものとして生徒・教員が無意識のうちに信じ込んでしまうことなのではないだろうか。このような社会的背景の転換となるチャンスは、「ゆとり教育」にあったように感じられる。しかしながら、「ゆとり教育」においても「入試の為の勉強」という概念は覆されず、結果として思考力が身に付かない結果となってしまったのではないか。
 続いて、3.11以降の理科教育における問題について考えてみたい。事故後、文科省から教育現場へ以下のような文章が発表された(科学2012年10月 崎山)。
『・「確率的影響」のうち「遺伝的影響」は、これまで人間(広島、長崎の原爆被爆者や核実験被爆者、チェルノブイリの原発被爆者含む)で見られたことがありません。』
『・「発がん」の確率は、弱い放射線の場合、積算100ミリシーベルトで約0.5%程度上昇すると見積もられています。今回、原発事故で考えられる唯一の身体影響は、「発がん」です。』
『・原発付近に滞在する住民の方におかれても、積算で100ミリシーベルトを被ばくすることは、今の状況では、考えられません。積算で100ミリシーベルト以下では、他の要因による「発がん」の確率の方が高くなってくることもあり、放射線によるはっきりとした「発がん」の確率上昇は認められていません。』
しかしながら、この文章が発表された当時(2011年4月20日)の段階では、住民の被ばくの実態も分からなかった。初期被爆の実態も分かっていないにもかかわらず、なぜ「唯一の身体の影響は、「発がん」です。」などと断定できたのか。そもそも、0.5%上昇するのは「発がん率」ではなく、「死がん率」である。チェルノブイリ事故での事故処理者、汚染値からの避難住民などに先天的形態異常も報告されており、がん以外に特に子どもには免疫系、内分泌系の疾患、若年性老化など多様な影響が報告されている。これらの事から考えて、この文科省の発表には疑問を感じざるを得ない。
 3.11以前に、理科教育における副読本として、「チャレンジ!原子力ワールド」が各校に配布されていた。この副読本で扱われた内容は、日本と世界のエネルギー事情、各発電方法の特徴、原子の性質、放射線、原子力発電のしくみと特徴、原子力発電の現状と今後、と網羅的だった。しかし、内容に問題点があり、「これまでに起きた原子力施設の重大な事故は、人為的なミスが主な原因」であり、また日本ではすでに「事故を防ぐ仕組みを見直し」ずみ、日本の原発の地震・津波対策は十分であり、原子炉は多重防護の考えの下で安全、また核燃料サイクルは重要という見解のみを「事実」の説明として与えようとするものになっていた。また、その姿勢にも問題がある。その叙述の基本姿勢は、(1)図表などを多様に用いて情報を次々に並べつつ、実は、個々の情報の批判的な吟味を促さない、(2)原子力発電という科学・技術と社会が関わる問題について、多面的総合的な検討の必要を一方では謳いながら、他方で問いも答えも複数の立場からの検討を避けている、(3)大きなニュースになった東電や動燃のトラブル隠し・データ隠しなど、公開性や企業・行政機関や専門家の倫理性に関する問題には全く触れない、というもので、結局のところ、自立した思考による検討の姿勢を生徒に促さないものになっていた。この副読本は、原発事故後に国会で議題に上がり、即座に回収された。
2011年秋に、再び副読本として「放射線副読本」が発行された。基本的な傾向は、上で述べた原子力副読本と同様である。市民や一部の教員からは、『文科省の副読本を差し止めたい』とする声もある(科学 2012年10月 後藤・國分)。教員(後藤)が文科省の副読本に対抗するため、独自に副読本を作成し、配布する動きもあり、これに対して肯定的な意見も多いが、一方で一部住民からは「ホルミシス効果を載せていない」などとする批判の声もある。住民の中に『追い詰められた状況の中で、安全と思いたい気持ち』があることも事実であり、だからこそ、放射線への危機感の薄い文科省の副読本が地元住民にすら浸透してしまう危険性もある。
 中学校の新学習指導要領では、理科第一分野に放射線教育が導入された。これに基づき、「放射線の性質と利用についても触れる」こととなり、放射線についてかなり多くの内容を教えることとしている。また、教科書執筆者には、原発推進を特に意識した教材の意図はそれほど強くないと思われる。一方で、ほとんどの社の教科書は、原発事故やそれに伴う放射線のリスクを正面から扱った記述を行っていない。また、原子力発電についても、現在国で議論されているようなエネルギー政策をめぐる争点には、ほとんど言及が無い(科学2012年10月 小玉)。そうしたなかにあって、唯一、福島第一原発の事故について言及しているのが、大日本図書の理科教科書である。「福島第一原発の原子炉が破損する事故が起きた」ことを明記し、チェルノブイリ原子力発電所事故の写真とともに「原子力発電所の事故」として取り上げ、「人体に健康被害が出るおそれ」を指摘している。(中略)エネルギー政策について、「原子力の利用が欠かせないと考えている国がある一方、原子力を廃止して再生可能エネルギーの利用を高めようとしている国もある」と述べている。
 このような、大日本図書の動きに見られるような傾向が他の出版社にも見られるようになれば、さらに踏み込んだ原子力教育が可能になると考えられる。
 今後の理科教育はどのようにあるべきなのかについて、考えてみる。原発の問題はトランスサイエンス的な問題であり、単純な、今までのような明快な答えを求める理科教育では対応しきれない。そのため、科学と社会が関わる問題を自分で考える方法について学べる理科教育を作らなければならないというのは明白である。
 しかしながら、現在の教育体制ではそのような教育方針を打ち立てることは難しいのではないか。理科教科書の内容が中立的になったとしても、その「中立的な内容について着目する機会」が無ければ無意味である。また、現状の「入試」に対応すべく編成された授業では、知識の詰め込み型教育になってしまう危険性もある。また、新教育課程において、実験・考察の項目は大幅に増やされたものの、英国に見られるような技術社会論について考えるような時間は設定されていない。近年の日本の理科教育において問題視されているのは、思考力の欠如であるとされている。確かに、実験・考察の項目を増やせば限られた情報から判断する短期的な思考力は養われるかもしれない。しかしながら、一つの事柄に対して様々な立場に立った情報を集め、多面的に熟考していくような「思考力」は身に付かないのではないだろうか。また、そのような「思考力」は大学入試で求められるものでもなく、余計に教育現場で取り組みにくい内容となっているように思える。このことから、教科書や副読本の内容、授業の内容について改善していく必要もあるが、入試制度や教育制度そのものを考え直していくことが、今後の理科教育・原子力教育には欠かせないことのように感じる。
by kobaso | 2013-08-23 12:02 | 退屈小話

原発事故について③

●原発事故以前の社会の姿勢
 原子力政策において、情報公開や市民参入の転機となったのは1995年の「もんじゅ事故」以降である。それ以前は、学・産の限られたアクターが結びついて閉鎖的な政策形成が行われてきた。「もんじゅ事故」の直後、世論の批判に危機感をもった政府は、「原子力円卓会議」の設置、原子力委員会議事録のインターネット公開、パブリックコメント制度の導入など、情報公開と意見聴取の仕組みの充実を図った。原子力委員会が主催した円卓会議は、原発反対派や一般市民も含め、多様な立場の人々を集めて原子力政策の問題点を包括的に議論した点で画期的なものであった。しかし、系統だった議論は展開されず、この会議が政策にどう影響するのかも最後まで不明瞭であり、予想される意見対立を克服あるいは融和させる運営上の工夫にも欠けていた。また、政策の本質をめぐる議論が続く傍らで原子力委員会は、下部組織である懇談会に「もんじゅ」の早期運転再開を提言させるなど、真摯さを欠いていた。パブリックコメント制度に関しても、寄せられた意見は聞きとどまる場合が多く、このように政府は原発維持の既定路線に固執しているような姿勢をとっていた。また、日本には「原子力の推進」を任務とする各組織から中立な安全審査機関やリスク評価機関が存在せず、原発立地自治体などが原発でトラブルが起こるたびに、原子力安全・保安委員を経産省から独立させるよう求めてきたが、結局そのような声も3・11まで受け入れられることはなかった。
by kobaso | 2013-08-23 11:34 | 退屈小話

教室の空気

近い将来、教員になりたい
と、思っています。

けれど、「その明確な理由は何か。」と言われると、正直なところ、答えられません。
先日、大学の先生と同期とで飲んでいる時に、「なんで教員なのか」を問い詰められて、ちょっと困りました。

ひとつの理由としては、科学が純粋に好きなので、その面白さを伝えたいということがあります。
けれど、「科学を教えたいのならば塾講師でも良い」と反論されると、その理由は教員を目指す理由としては、意味をもたなくなります。

塾は、「受験のための勉強」をしにくるところで、自由がない。試験の点数をあげるためだけに勉強するなんて、いやだなあと僕は思っているのですが、同期曰く、「それは塾によるし、受験勉強のためだけの勉強が嫌なら、そうじゃない勉強を教える塾を作ればいい。」のだそうで、それもそうだなぁと思います。

「子どもの考えを変えさせたい、影響を与えたい」という理由・考え方は、おそらく僕には希薄で、そのことは前の前の記事にも書きました。
当然、いじめ問題等はなんとかしなければならないし、生徒が社会的に悪とされるようなことをした時には、それは教員として正さなければならないと思いますが。
けれど、「夢に向かって生きろ!」みたいなのは苦手なんですよね。そういう意味で子どもの考えに介入したくはない。

そうなると、益々教員になる理由が見えなくなる。けれど、教員になりたいという気持ちは何故か残るんですよね。
なんでだろうなってしばらくぼんやりと考えてみました。

僕はたぶん、あの教室の空気が好きなんです。
喜びも楽しさもわずらわしさも苦しさも後ろめたさも混在するあの空気が。
その空気になじめないと感じたら、朝早く行って誰もいない教室を独り占めすればいい。そしたら自分だけの教室の空気を創ることができる。
時間と存在する人によってふわふわと色を変えるあの教室の空気が、好きなんじゃないかなあ。

中学だったか高校だったか、反抗期真っただ中だった友人が、こう言ったことがありました。
「教員なんて学校に未練を残したしょうもない奴らがなってるんや。」
その通りなのかもしれません。

なんて色々考えたって、ほんとに教員になるのかどうかはわからないけれど。

昨日・今日と、院の授業で館山に行っていました。夜には宴会があって(建前はミーティング)、いつのまにやら藻類の先生の隣に座っていました(こういうのがあるといつもこんな感じの配置になるのはなんでかなと思いつつ)。そこで、お酒を飲みながら先生と話していると、先生がこんなことを言っておられました。

「他の仕事の人のことはわからないけれど、大学教授なんてなろうと思ってなった人って少ないんじゃないかなぁ。今やってる仕事が理想だなんて思ってる人なんていないと思うよ。職業なんてその時の風の吹きまわしみたいなもんでさ。今そんなこと考える時間あるなら、好きなこと考える時間にまわした方が楽しいと思うけどなぁ。といっても、時代が変わってるのかな。」

性懲りもなく風に吹かれてみるかな。
by kobaso | 2013-08-22 21:54 | 退屈小話

ぼくは落ち着きがない

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ぼくは落ち着きがない 長嶋有 光文社文庫

『 文学というジャンルがあるとして、それが立派そうにみえるのだとしても、それはやはり外側からの見立てでしかない。くだらない文学は、どこまでも下らない。過激なのも、笑えるのも、無為なものも、エロいのも、いくらもある。
 だけど「過激だけど笑えるんだよ」と啓蒙しても仕方ない。その本を手に取った人が文字を目で追って、そう感じたときに初めて、過激さや笑いはこの世に(その人の心の中という「この世」に)生じる。生じるのは、その時「だけ」だ。』

高校の図書部を舞台に繰り広げられる物語。高校生特有の、うまくまとまりきらない、それでも考えがあっちにいったりこっちにいったりするような、軽やかな文体。けれど、軽やかさの中にもちらちらと覗き込むものがあったり、ずっしりしたものがあったりする。
あまりなにも考えていないから楽しい。あまりなにかを考えきることができないから悲しい。苦しい。
「サイドカーに犬」を読んだ時には女の子に。「泣かない女はいない」では女に。そして、この本では高校生に。長嶋有は、いろんな演出をするのがうまい、と思う。
あと、さくっと読める割にはさくっと読めないような内容で、最初は主人公の目で読むけれど、脇役の頼子だったりナス先輩だったりの目でも、読める。最初からちゃんと伏線というか、実は丁寧に書かれていて、感心しました。

主人公が、本の貸し出し記録を見て、10年も前に借りられたものの、それ以降一度もだれにも借りられなかった本を見て物思いにふけるシーンがあります。
少し似た思いをしたことが、僕にもあって、その部分を読んだ時にふと高校生時代に図書館で借りた本を読んでいるときに感じたことを思い出しました。
僕は、本はあまり学校の図書館を使っていなくて(司書の先生がなんか苦手だった)、もっぱら祖父母の家の近くにある図書館から本を借りていました。そこには、白文と書き下し文が載っている漢文の全集みたいなシリーズがあって、当時僕はそれを片っ端から読んでいました。当時は意味を理解できて、それなりに楽しく読んでいたけれど、今はもう読めないだろうな。そんな本なので、ほとんど誰かに読まれた形跡もなくて、紐のしおりが本の真ん中に丁寧に収まっていました。けれど、たまに本のしおりの位置がずれていたり、鉛筆で書き込みがあったりする時があって、それがとても嬉しかったんですよね。「どんな人が読んだんだろう。学校の先生とかかな。受験生かな。自分と同じように、ちょっと背伸びして読んでたのかな。」とか想像するのがすごく楽しかった。
本は一人で読むもので、映画のように大勢で観るものではありません。だから、本を読んでいるときに思い浮かべる光景とかは、ちょっと特別で、自分だけのものみたいに思えたりする。けど、自分だけのものにとどめておくのが惜しくって、同じ本を読んだ人の思い浮かべた光景とか、感想を共有したいとも思う。
だから、過去に同じ本を読んだ人がいるって知ると、嬉しくなったりするのかな。
そういえば、ジブリの「耳をすませば」にも似たようなシーンがあったっけ。

わー、なんだか本の感想と話がずれてしまった。
この本の『(あ、筒井康隆)これを読んだら、次は当然『七瀬ふたたび』だな。小説の「つ」の棚までいくと、やはり返却された『家族八景』の隣の一冊が抜けている。これが実は三部作で、まだ七瀬の活躍を読むことができると知るときの、誰かの高揚を想像する。』ってところも好きです。筒井康隆とか、『風味絶景』とか、『ハリーポッター』とか、宇多田ヒカルとかが細かいところでちょくちょくと登場してくると、それら脇道にまで思いをはせることができて、なんというか、一石二鳥です。

あと、文庫本の解説は堺雅人が書いていて、これもおもしろい。
by kobaso | 2013-08-17 23:59 | 読書小話

人が変わる

昨年、いろいろとあって体調やらなんやらを崩してしまい、今年に入ってもずるずると引きずっていて、いつ完全に良くなるのかわからないような状況におります(元気なんだけれど)。
で、それを治すにはどうやら考え方をいろいろと変えなければならないらしい(正確に言うと、この変え「なければならない」という考え方を変えた「方がいい」らしい)。

けれど、人間考え方を変えるというのはすごく難しいように、僕には感じられてしまいます。
今まで十数年、数十年積み重ねてきて、その個人の考え方があるわけで、その形を変形させるというのは、なかなかできたものではないように思えます。
ただ、これもイメージの問題で、積み重ねてきたものに新しく積み重ねをして、結果的に考え方を「ずらしていく」ことはできるかもしれない。
人が、新しい考え方を積み重ねるのは、ひとつは「より楽にいきていく」ためなんじゃないかなと思います。例えば、「他人との良好な関係を作り上げる」という行為は、「自分のいる環境を良くするため」という自分が楽になるための行いのひとつと考えることができます。だから、「他人」を優先しすぎて「自分」が「楽」でなくなったら、「他人」との別の接し方をとってより「自分」が「楽」になるように、ものの考え方を修正していく。
けれど、人の「考え」なんて柔軟なものではなくて、ある程度「慣性」みたいなものが働いてしまうように思うんですよね。「人との関係を良好に保とう」→様々な事情で良好な関係が保てない→「なぜだろう」→「こうすれば保てるだろうか」→保てない→「なんでだろう」→…
この考え方の「慣性」に従ってしまうと、悪循環が起きてしまいます。
ここに、「ここでは保てないなら、それは割り切って、他の所で自分の居場所があればいい」という視点が入ってくれば、状況は変わってくるのかもしれない。
けれど、その新しい視点を、その場その場で臨機応変に自分の考え方に組み込んでいくことって、なかなか難しいんですよね。その視点があればいいことはわかっていながらも、どうしても慣性に従ってしまう。それは、今までそうやって生きてきたからで、ある意味考え方がマニュアル化してしまっているのかもしれない。頭がかかたいのかなぁ。

一方で、「信念を持ちなさい」みたいに言われることも、生きていると多々あります。
この場合の「信念」っていうのは、何だろう。揺るぎない考え?
そうすると、「柔軟にものを考える」ってことと相反してしまいますね。
それとも、揺るぎない考えを持っていないと、何かとぶつかった時その考えの間違いに気付くことができないのかな?うーん。
自分に「信念」があるかと言われると、そんなことはないように思います。
かといって、柔軟な考えが出来ているかと言われると、そんなこともない。
イメージ的には、投げられたボールみたいなもので、ある程度決まった方向にしか思考をすすめることができないのかな。方向を変えようとおもったら、回転の向きを変えるしかないんだけれど、そんな簡単に変わるものでもなくって、それがなかなか難しい。そんな感じ。

自分の考えを変えることが難しいのならば、他人の考えを変えることなんてもっと難しい。
極論をいうと、そんなことは出来ないんじゃないかと、思っています。
けれど、もし人を指導するという立場になったら、そういうことをしなければならないのかもしれない。
例えば、「ライ麦畑で捕まえて」の主人公(ホールデンだっけ?)みたいな子がいたとして、もし自分が教員だったとしたら、その子の考え方をそのままにしておくわけにはいかないだろう。
けれど、ホールデンの考え方を変えられるかというと、決してそんなことはないだろうし、変えようとしてもむしろ逆効果であるように思う。
できることとしたら、別の視点を示すしかない気がする。
けれど、別の視点を示したところで、指導者としての責任を果たしているのかというと、どうなんだろうという気もする。
と言うよりも、ホールデンの場合はホールデンの考え方を「理解する」ことが大切なのかな。彼はとても孤独そうに思えた。いや、「理解しようと努力する」ことは指導する上で最前提のことかな。

たかが「考え」でこんなにもうじうじするところが、そもそもよくないのかねぇ。
by kobaso | 2013-08-12 21:04 | 退屈小話

原発事故について②

●低線量被爆問題
 先の長崎・広島に投下された原爆によって、「100ミリシーベルトの被ばくに対して障害で発がんリスクの約1%の増加、あるいはがんによる死亡リスクの約0.5%の増加」が認められ、専門家の間においてもほとんど論争が無い。しかしながら、100ミリシーベルト未満の挙動においては専門家の中で意見が完全に一致しているわけではない。原発事故の際、「年間累計100ミリシーベルト未満のがんリスクは科学的に認められない」というフレーズを用いて、低線量被爆の安全性を訴える専門家が存在し、繰り返し低線量被爆の安全性が説かれることがあった。しかしながら、これは100ミリシーベルト未満の危険性が全くないという意味ではない。リスクの直接推計に代わって用いられる科学的なアプローチは、推定ないしは外挿と言われるアプローチである。単純に説明すると、影響が科学的にわかる範囲(つまり、累積50~100ミリシーベルト以上)の被爆とがんリスクの関係をプロットし、プロットされた点をうまくつないでわからないところまで延長することにより、リスクの見積もりを行うものとみなせる。しかし、この延長する線の形状は、科学が持ち合わせる証拠から判断して、科学的に異論がほとんどないと断定できる程度の厳密さで決めることはできない。したがって、100ミリシーベルト以下のがんリスクは、危険か安全か、科学的には「わからない」というのが本当であって、「影響がない」と断言できるわけではない。いわゆる、グレーゾーンである。しかしながら、「100ミリシーベルト未満のがんリスクは科学的には認められない」といった言説が繰り返されることで、そのグレーゾーンの判断を行う機会が奪われかねない危険性がある。
 100ミリシーベルト以下の低線量被爆によるがんリスクは、喫煙や、飲酒、ストレスなど心因性のものによるリスクとあいまり、「被爆」だけの直接的な要因を見出すことは困難である。しかも、チェルノブイリで見られたように、被爆地域における集団はその事故がきっかけで生活スタイルが変化し、健康を害していく場合もある。 
 また、低線量被爆を危険視する人々が、twitter上等で「放射脳」などと揶揄されるケースも多発し、「風評被害」という言葉によって、低線量被爆の可能性がある食品を購入しない消費者が「加害者」として扱われるような事態が発生した。上で述べたように、低線量被爆の問題は、科学的な観点からだけでは判断できないトランス・サイエンス的な問題である。民主主義下では、商品の買う・買わないの選択は消費者にゆだねられるべきで、個人の裁量次第である。本来、食品の放射能汚染の責任は東電および政府が負うべきものであるのに、「風評被害」という言葉が用いられることにより、その責任の所在が一部の消費者にすり替わっているという側面は否めない。
 さて、前章で少しだけ触れた、食品における低線量被爆の問題であるが、原発事故後、食品衛生法上の前提基準値として、緊急時の周辺住民の被ばくを低減させるための基準として「飲食物摂取制限に関する指標」が採用された。ここで重要なのは、この指標はあくまで「原子力緊急事態宣言」が発令された際の、「緊急的な」防災対策として想定される放射能の基準値であるということだ。たとえば、I131については、1リットルあたり300ベクレルと定められている。これは、飲食物中の放射性物質が健康に悪影響を及ぼすか否かを示す濃度基準ではなく、緊急時における介入のレベルである。一方、WHOが定めている「平常時」の水質基準はI131で1リットルあたり10ベクレルとなっている。これは、年間被爆量として0.1ミリシーベルトを上限とするように設計されている。すなわち、「安全基準」という意味で用いるならばWHOの指針を用いるべきである。しかしながら、政府は「ただちに健康に影響を及ぼす数値ではない」として、あたかも安全な値であるかのように説明してしまった。暫定基準値は、「安全性を確保する」ことを目的とするものではなく、「実行可能な事をやる」ことが目的であるにもかかわらず。政府は、説明の際に、「今は緊急事態である」と明確に述べ、そのうえでどのような基準値を設定したのかをしっかりと説明するべきであったと思われる。結果として、緊急時の基準値と平常時の基準値の差によって国民の間に混乱が生じてしまったものと思われる。

・・・・・・・・・

追記
 発がんのリスクは、確率的な問題です。100ミリシーベルト以下であっても、リスクが0と言いきることはできません。例えば、「100万人に1人これを食べればがんになる」という食べ物があったとして、その食べ物の販売を認めるかどうか、購入するかどうかという問題は、もはや科学的な問題ではありません。そのリスクをどのように説明し、どのように受け止めればよいのかという問題は、難しい問題であるように思えます。
by kobaso | 2013-08-07 22:17 | 退屈小話