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スワロウテイル

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どうも自分の中でブームになる俳優がいるらしくて、前は堺雅人、ちょっと前は松田龍平、そして今は渡部篤郎にはまっています。渡部篤郎関連でこの映画を手に取りました。

「むかしむかし 円が世界で一番強かった頃、その街は移民であふれ、まるでいつかのゴールドラッシュのようだった。円を目当てに円を掘りに来る街。そんなこの街を移民たちはこう呼んだ。”円都(イェンタウン)”。でも日本人はこの名前を忌み嫌い、自分たちの街をそう呼ぶ移民たちを”円盗(イェンタウン)”と呼んで蔑んだ。ちょっとややこしいけどイェンタウンというのは、この街とこの街に群がる異邦人のこと。がんばって円を稼いで祖国に帰れば大金持ち。夢みたいな話だけど、何しろここは円の楽園…イェンタウン。そしてこれはイェンタウンに住むイェンタウンたちの物語。」
という冒頭で始まる。
主人公は円都で生まれた少女。その少女を取り巻く世界のお話。

お金でまわる世界もあれば、お金じゃないものでまわる世界もある。けれど、どっちの世界もお互いに重なり合って成立しているから、お金がなくても生きていけないし、お金じゃないものがなくても生きていけない。
お金じゃないものだけを追い求めていたらお金に足元をすくわれる。
お金は大事だし、お金は欲しいけれど、なんでだろうね、さっきから「お金」ってばかり書いていると虚しくなる。
「お金」じゃなくたって、「夢」だとか「愛」だとか、そんな言葉でも同じことなのかもしれません。
「お金」も「夢」も「愛」もいらないなんて言えない。「お金」は欲しいし、「夢」も、「愛」だって、欲しい。けれど、「欲しい」って思ったその直後に、何故だか虚しさがついてくる。この虚しさはどこから来るのかな。

フェイホンが好きでした。
人の夢を実現させることが自分の夢で、そのためなら何だってしてしまう。けれど現実的にそれが自身の身に報われることはなくて。自分でも「馬鹿だなぁ」ってきっと思ってるんだろうけれど、その「馬鹿」を貫く生き方しかわからないフェイホン。馬鹿だなあ。


渡部篤郎が若かったです。若かったというか、綺麗なお顔立ちでした。
「外事警察」の渡部篤郎とどっちが好きだろう。うーーーん。
by kobaso | 2014-05-31 01:49 | 映画小話

minimal

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minimal/谷川俊太郎/思潮社

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お魚を産んだわ
と女が言う
すぐ海へ放したと

ふふふと含み笑いして
私は街の中
ヒトがヒトにうんざりしている

これから何をしようか
死んだ友だちに
会いに行こうか

何も分かっていない
何も知らない私は
ひとまず文庫本を開くが

いい天気だということしか
心に
浮かばない

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東京に来てよかったと思うことの一つは、東京のどの街にも、生活圏内に個人経営の面白い古本屋さんがあるということです。
大きな書店だとそのあまりの蔵書数にどの本を手にとって良いのかわからなくなってしまうけれど、こじんまりとした古本屋さんだと、情報量が限られているので、おもしろそうな本が探しやすいんです。
あと、詩集や歌集のような、「新品で買うには少し気が引けるけれど、中古の値段なら欲しい」ような本を手に入れるのに古本屋さんは重宝します(詩人の方、歌人の方、ごめんなさい)。
この本も、阿佐ヶ谷のコンコ堂という古本屋さんで見つけました。ちなみに昨日の「青」も。

僕が読んだことのある詩は、ランボオと谷川俊太郎、あとは小説や随筆にちらっと出てきた詩くらいです。なので、あまり詩についてどうこう論じることはできないのだけれど、詩って余白が大事なんだろうなと思うんです。
詩集をめくると、真っ白な紙にぽつりと数行の言葉が並んでいます。
その紙の真っ白さが、僕は好きです。そしてその真っ白な紙にぽつりぽつりと並んだ言葉が好きです。
しんとしたところで、誰かがぽつりぽつりと、もしくはすらすらと、もしくは力を込めて話すような、そんな情景があって。
なので、僕が最初にあげた詩(題名「ふふふ」)も、余白を感じられないこの場に載せてしまったことで、たぶんその魅力はかなり失われてしまっただろうと思います。色々な意味で谷川俊太郎さんごめんなさい。

谷川俊太郎さんの詩だと、この詩集では「ふふふ」が、「夜のミッキーマウス」では「百三歳になったアトム」が好きです。何故かはあまり言葉にできません。


色々な職業の人がサバイバルゲームをしたら、まず真っ先に詩人が消えるだろうとはよく言われますが、詩人は誰かにかくまわれて、結構生き残るのではないかと、僕は思っています。
言葉が無ければ人は死んでしまうから。
by kobaso | 2014-05-25 21:48 | 読書小話

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麦藁帽子/堀辰雄
少女/ウンセット 尾崎義訳
コロンバ/デレッダ 大久保昭男訳
百年文庫 ポプラ社

「青」をテーマに3つの短編が収められた短編集。
「麦藁帽子」では海の青。「少女」ではアネモネの青。「コロンバ」では夜の青・悲しみの青。
表紙と帯のデザイン、あとは自分の好きな色がタイトルになっているというところに魅かれて、古本屋さんで手に取りました。
堀辰雄は最近、ジブリの「風立ちぬ」で有名になった(もとから有名だったからこの表現は正しくないかもしれない)ので、特に説明はいらないと思います。
ウンセットはノルウェーの作家で、1928年にはノーベル文学賞を受賞している作家さん。
デレッダはイタリアの作家で、こちらも1927年にノーベル文学賞を受賞している作家さん。

「青」に収められている3篇は、どれも心理描写が繊細で、僕の好きな作品たちでした。

「少女」では、2人の少女の友人関係が描かれています。人間関係のようなものって、国も時代も関係がないのだと改めて思いました。昔は、友人と自分の力関係のようなものを気にしたり、友人に劣等感や優越感を感じたりして、その度に自己嫌悪のようなものに陥っていたなぁ。ここ数年はそんなことが全くと言っていいほどないのだけれど、これは僕が成長したからなのか、それとも感性が麻痺してしまっただけなのか。

「コロンバ」は、この3篇の中でも僕が特に好きだと思った作品です。
失恋した直後で、貧しく、猜疑心と皮肉にとらわれてしまっているアントニオと、田舎者だけれど気立てのよいコロンバのお話。
誰だったか、「自分が欲しているものが手に入らず、その状態が長く続くと、人は自分が何を欲していたのかすらわからなくなってしまう。」みたいなことを言っていたけれど、この短編を読んで、僕自身が求めていたものを思い出しました。
なんてことはない、単純で簡単なことでした。

人との関係性、人と関係を持つ時に抱く心情のようなものに焦点をあてているから、きっと人によって色々な解釈ができて、色々な感慨にふけることもできて、おもしろいと思います。
本屋さんではなかなか見つけられないかもしれないけれど、おすすめの本です。
by kobaso | 2014-05-25 01:00 | 読書小話

ぼくはスピーチをするために来たのではありません

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ぼくはスピーチをするために来たのではありません Yo no vengo a decir un discurso /G・ガルシア=マルケス 木村榮一郎 訳/新潮社

『自分たちを測る物差しをわれわれに当てはめようとする気持ちは理解できます。しかしその時、つい誰もが生きていく上で味わっている苦しみは同じだと思いがちですし、かつてのあなた方がそうであったように、われわれが自己の存在証明を得るのは極めて困難で、血を流すほどの苦労をしなければならないほど厳しいものだということを忘れてしまいます。』


ガルシア=マルケスが死にました。

僕がガルシア=マルケスの本を初めて読んだのは高校生の頃で、その本は「百年の孤独」でした。海外の作家の本はそれまでにもいくつか読んでいましたが、ハリー・ポッター以外で長編の海外作品を読んだのはそれが初めてでした。決して読みやすい文章ではないけれど、ファンタジーというのか、神話的な物語に魅かれてぐいぐいと読み進めていったのを覚えています。新潮社のガルシア=マルケスの本は、その単行本の装丁が好きだったこともあって、以来、「落葉」「悪い時」「族長の秋」「迷宮の将軍」などといった本も集めて読み漁りました。

ガルシア=マルケスが死にました。
けれど、僕にとってはガルシア=マルケスがこの21世紀に「生きていた」ということが不思議に思えてしまいます。

僕にとってのガルシア=マルケスのイメージは、「混沌」「高温多湿」「神話」「独裁者」「老人」「死生」でした。
芥川やカフカのような小説を読むと、自然と自分自身と作者を重ね合わせてしまったりするのだけれど、ガルシア=マルケスの場合には全くそれがありません。社会批判や皮肉も話の中にたくさんこめられているのだけれど、それすら神話みたいな物語に包み込まれてしまう。
独裁者の話も、年老いた老父の話も、そのお話があまりに幻想的というのか、まるで物語が幽霊であるかのような感じがして、ガルシア=マルケスの本を読んでいるといつも自分がどこにいるのかわからなくなってしまう不思議な感覚に襲われます。
つかみどころがないと感じてしまう所以は、ガルシア=マルケスが暮らしていたラテンアメリカという土地に対する、僕自身の知識のなさにあるのかもしれません。
僕はラテンアメリカのことを、恥ずかしながら全くと言っていいほど知りません。だから、「魔術的リアリズム」と言われるガルシア=マルケスの、「魔術的」な部分しか僕は読みとれていないんだろうなと思います。もったいないことだね。
けれど、この状態で彼の本を読むと、まるでおじいさんが奇想天外な昔話を繰り広げてくれているかのような感じもして、僕はその感じが結構好きです。そう、ガルシア=マルケスは僕にとっては「書き手」というよりも「語り手」でした。そしてそれは単なる「語り手」ではなくて、今はもういない人が夢の中で語ってくるような「語り手」であって、だからこそ、ガルシア=マルケスが「生きている(た)」という感覚がどうにも湧かなかった。

この「ぼくはスピーチを~」を読んで初めて、ガルシア=マルケスその人が「生きている(た)」人として、その実像を少しだけではありますがイメージすることができました。ラテンアメリカのことも。
この本は22の講演を文章に書き起したものなので、彼の書く小説とはまた趣が異なります。けれど、例えそれが講演であっても、その言葉の中にガルシア=マルケスの物語を読み取ることができて、「人」としてのガルシア=マルケスとその「文章」を感じ取ることができます。
そしてこの本を読み終えた後に、もうガルシア=マルケスが「本当に生きていない」ことを実感して、少し悲しくなったりしました。ガルシア=マルケスならば幽霊になってでも語り続けていそうだけれど。

ご冥福をお祈りします。
ガルシア=マルケスの書く、思いもつかない創造性に満ちた物語が大好きでした。
by kobaso | 2014-05-24 01:31 | 読書小話

ぼんやり

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特に書くこともなく都会の灯り。

面白い映画がみたいな。なにかないかなー。
by kobaso | 2014-05-19 22:59 | 写真小話

いつかの海

2か月くらい前の海。

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穏やかな水辺が、やけに落ちつくのはなぜでしょうね。
これから先も、なにがあるわけでもなく海に来たくなったりするんだろうな。
大学の人たちとまた一緒に実習したりしたいけれど、それはもう叶わぬ夢なんだなぁ。

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あと、この日の教訓は「あわてず慎重に運転しよう」でした。
by kobaso | 2014-05-14 22:21 | 写真小話

東京

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東京に出てきて、もう6年目です。
僕が言うまでもなく、東京は夜も明るくて、夜なのにカラスが鳴いたりします。
6年目なのに、まだ、東京になじめていないなぁ。
これからうん十年先も、ここに住むだなんて。
by kobaso | 2014-05-13 22:40 | 退屈小話

ヤクルトの彼

久しぶりにヤクルトを飲んだ。
研究室の机の上に置いてあったそれは、小さく独特な形をしたプラスチックのビンの中に、何を混ぜたらこんな色になるのか不思議なくらい肌色の液体が入っていた。
飲んでみると、昔飲んだ時と全く変わらない、甘く舌に絡まってくるような味がした。
昔飲んだ時…?昔ってどのくらい昔だっけと考えてみると、まだ京都にいた頃の記憶がぼんやりと浮かんできた。

そこは川の土手のそばにある古い、というよりもぼろい家だった。
僕は小学3年生で、その家の子は同じ学校に通う年下の男の子だった。僕とその子は特に仲が良いというわけでもなく、共通点もほとんどなかった。その子は小学1年生だというのに髪の毛を染めていて、虫歯が多く、銀色の歯もあった。他の子とよく喧嘩していて、友達もあまりいなかった。
なぜその子の家に行くことになったのか、あまり覚えていない。何かの拍子に学校から一緒に帰って、家に誘われたのだったか。
家は外見もぼろかったけれど、中も散らかっていて、玄関の靴はバラバラだったし、洗濯物があちこちに散乱していた。
僕たちは何をして遊ぶでもなく、ただ話をした。何を話したのかは全然覚えていないけれど。
しばらくした後、部屋の中に茶髪の女の人が入ってきた。「いらっしゃい」とくたびれた感じでその人は言って、小さな肌色の液体が入ったプラスチックのビンを僕とその子に渡した。渡すとすぐに、女の人は気だるそうに部屋から出て行った。
僕は赤いアルミの蓋を外して一気に飲み干した。ヤクルトは冷やして飲むものだと思っていたけれど、その時のヤクルトは常温で、いつにもまして舌の上がねっとりした。
「そんな飲み方してもおいしくないやんか。」
そう言って、その子は蓋を半分くらい開けてチビチビ飲んだ。
僕は彼がヤクルトを飲む様子を見て、笑った。その子もつられて笑っていた。
ヤクルトを飲み干すと、その子は空っぽのビンをまじまじと見つめて、
「オレな、このビン集めてんねん。捨てるのもったいないやん。やから、そのビンもくれへん?」
と言った。
「ええけど、そんなん集めてどうするん?」
「わからへん。けど、なんかには使えるやろ。何に使うか今度一緒に考えようや。」
その子は2本の指にビンをはめ、カチカチとカスタネットのように鳴らした。

家を出るとき、その子は
「また来てな。」
と言った。けれど、その子の「また来てな」には力がなかった。まるで僕がまた遊びに来ることを全く期待していないかのようだった。
その「また来てな」を聞いたとき、何故かはわからないけれど僕は今まで以上にその子に親近感を覚えた。
手を振って別れたあと、その子の家を振り返って見た。
トタンの屋根はさびついていて、怪獣が歩いた時の振動だけでつぶれてしまいそうな、小さな家だった。

それ以来、その子の家に行ったことはない。誰かに止められたのだったか、判然としない。
その後僕は引っ越してその町を離れてしまったから、その男の子がどんな風に生きているのかも知らない。

それから十数年経って、空いたヤクルトのビンをぼんやり眺めて使い道を考えたけれど、何も思いつかなかった。
燃えないごみのゴミ箱にビンを投げ入れ、しばらくした頃には何もかも忘れていた。
by kobaso | 2014-05-10 00:21 | 退屈小話

本の逆襲 ②

「本の逆襲」には、書籍のデジタル化についても書かれています。
様々な選択肢が増えることで、「本」の将来が明るくなると筆者は述べています。

僕個人としてはどちらかというと、デジタルの本よりも、紙媒体の本が好きです。
そこに大それた理由はありません。単に紙の質感が好きだとか、本棚に並べられた本を眺めるのが好きだとか、人の読んでいる本のタイトルを盗み見るのが好きだとか、そんな理由です。
紙の本が駆逐されないのであれば(駆逐されないと思っている)、デジタルの本が増えていっても、構わないと思っています。

ただ、デジタル化する必要性がいまひとつわからない「本」があります。
それが、学校で使われる教科書・教材です。
デジタル黒板やデジタル資料集はわかります。
黒板が電子化すれば、今よりずっと授業の幅は広がるだろうし、チョークの粉による喘息みたいなものだって防げるかもしれない。
資料集は、そもそもが「資料」を載せるものなので、デジタル化することによってより豊富な量の資料を載せることができるでしょう。なかなか図などで理解することができなかった化学や物理といったものも、資料集がデジタル化されることによってずいぶんと変わるかもしれない。

しかし、教科書をあえて電子化する必要はあるのでしょうか。
教科書を電子化するということは、kindleのようなハードウェアに、全教科の教科書を入れるということになるのかと思います。
確かに、そうすれば馬鹿みたいに重たいランドセルを背負う必要もなくなります。
けれど、メリットよりもデメリットの方が大きいように、僕には思えてしまいます。
もし生徒が、ハードウェアを忘れてきてしまったら、その生徒は一日教科書がない状態で授業を受けなければなりません。ハードウェアのバッテリーが切れてしまった場合も然りです。
紙の教科書はよほどのことをしなければ壊れませんが、ハードウェアは子どもたちの雑な扱いを受ければ壊れてしまうでしょう(特に僕のようなずぼらな奴に使われた場合)。

教材はどうでしょう。
宿題として出されるワーク。
「ワークが電子化されれば、学校の先生のチェック(宿題をやったかどうかの確認)が楽になる。」という意見があります。
「ワークの回答欄を埋めた」ということで評価するのであれば、確かにチェックは楽になるでしょう。
けれど、一度でも塾であれ学校であれ親であれ、子どもの学習指導をした人ならわかると思いますが、学習で大切なのは「解答」ではなくて「過程」です。
国語であれば、生徒自身が大切だと思った本文にしっかりと傍線なり印をつけられているか。選択問題を考えた形跡が残っているかどうか。
数学であれば、どのような途中計算が書かれているのか。自分自身で作図ができているか。
その「過程」をチェックするにあたっては、圧倒的に紙媒体のほうが優れていると、僕には思えてなりません。
少なくとも、今の日本の教育で、教科書・教材が電子化される必要性はないように思えます。必要となるとしたら、教育の形そのものが変わる時ではないかと思っています。
とはいえ、各教科書会社・教材会社はデジタル化に対応できるような策を練っておかないといけないのも事実なのでしょうが。

あれ…今日もまた「本の逆襲」の話とずれちゃいました。
ごめんなさい。えっと、無理やりまとめると、
「本」という存在のあり方について考えさせられる、良い本だと思います。おすすめです。
by kobaso | 2014-05-04 21:33 | 読書小話

本の逆襲 ①

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本の逆襲 / 内沼晋太郎 / 朝日出版社

本のデジタル化に伴う印刷会社の利益減や書店の減少、雑誌の売れ行き低下など、「出版不況」と言われる今の時代の「本」のあり方について考えられた本。著者は下北沢のB&Bを経営したりしておられる内沼さん。
B&Bには一度友人と行ったけれど、その時はビール飲まなかったな。封筒に入った文庫本が印象的でした。

本が好きだと公言しながらも、本が作られてから読者に渡るまでの流れを知ったのは、就職活動を始めてからでした。
そんな人間でも、無事に就職活動を終えて「本」に関わる仕事に就くことになりました。
今の時点で「本」について思うことをつらつらと書きたいと思います。きっと数年後に読み返したら恥ずかしくて消えたくなるんだろうな。

「本の逆襲」のなかでも書いてあるけれど、出版業界は特殊な仕組みができていて、出版社→取次(商社)→書店という流れで基本的にはまわっています。日本には出版社が約3700社、取次が26社(内2社で8割のシェア)、書店が約14,000社存在しています。会社数でいくと圧倒的に取次が少ないけれど、どの書店に何冊その本を流すかみたいなものを決めているのは取次で、特に大手の2社が出版業界において圧倒的な力を持っています。
ざっくり言ってしまうと、毎日毎日膨大な数の新刊が書店に届くのは取次のおかげです。取次が存在するおかげで、書店はいちいち、どこそこの新刊を何部入れるかみたいなことを決めなくていい。本は自動的にやってきます。そんなことしてたら本屋さんが欲しくない本まで送られてきて、大変…。って思っちゃうけれど、委託販売制度というのがあって、売れ残った本は出版社に返品することができる仕組みになっています。

なんだか仕組みについて書くとつまらなくなっちゃうね。
出版業界に大きく貢献している取次ですが、その力の大きさ故か、批判もたくさんうけているようです。
「大きな書店を優遇して、小さな書店に売れる本を配本していない」のような。
けれど、その批判はいささか的を外しているように僕には思えます。
大型書店と街の小さな本屋さんで同じ「売れる本」を売ったところで、小さな本屋さんに勝ち目があるかというと、怪しいんじゃないかと思えてしまうんです。わざわざ小さな本屋さんに「売れている本」を探しに行く人がどれほどいるでしょうか。「売れている本」を扱うということは、大型書店と似たような本を扱うということです。似たような本しか置いていないのなら、品揃えの豊富な大型書店に人が流れるのは必然でしょう。
問題は、「小さな本屋さんの特色が出せるような配本ができない」ことに問題があるのではないのかと思います。
小さな本屋さんが大型書店に勝つには、その店の色を打ち出す必要があるのではないでしょうか。
B&Bのような、「ビール飲みながら本みられます」みたいな本屋じゃないにしても、その本屋の店主がキノコ好きなら、キノコの本を豊富に品揃えするとか、近くに海の大学があるなら、海の本を中心に品揃えするとか、そういうことができるとかなり違ってくるんじゃないかと思うんです。
小さな本屋さん一軒一軒の店舗状況・希望を把握して丁寧に配本できるような仕組みを取次は構築するべきだし、そういう強みをはっきりと出せるように書店側も工夫していくのがいいんじゃないかなと。
もうすでにそんなことはしているのかもしれないし、「言うは易し」で難しいことなのだろうと思うけれど。
取次大手の1つが、買い切り制(書店が欲しい本を欲しい分だけ発注する制度)を始めたようなので、また変わってくるのかもしれません。買い切り制をすすめると、取次の存在意義が薄まってしまう気もするのだけれど、そこは取次の情報量と今までのノウハウでカバーしていくのかな。

今の時点では、大型書店だけではなく、小さな書店までも「金太郎飴化」してしまっているのが、書店が潰れていく一つの原因なのかなという印象を抱いています。

なんか「本の逆襲」の内容とだいぶずれちゃった。
つづく
by kobaso | 2014-05-04 03:18 | 読書小話