人気ブログランキング | 話題のタグを見る

国語の記憶

国語の試験問題は、小説の一断片が抜粋されて出題される上に、問題が筆者のまるで意図しない、出題者のある種の勘違いというか価値観の押しつけで出されるから、子どもに本への興味を失わせることとなり、教育としてあまりよろしくないという意見がある。
学校だったか、通信教育だったか、模試だったかは忘れたが、とにかく試験で上のような趣旨の評論文が出題されて、皮肉というか試験を作った人の意地悪さが印象的だったのでよく覚えている。

文章の世界にはまりこんで、その人の意見にすぐ左右されるのは僕の悪い癖で、国語の先生に「問題に感情移入するな」とか、「評論文は冷静に書き手と出題者の意図を判断しなさい」などとよく言われたものだが、最後のセンター試験まで、僕はその先生の助言通りに問題文を冷静に読み進めることができなかった。物語の問題ではいつも小説を読むときのようにいちいち情景文とか、登場人物の台詞を気にして、評論の問題では書き手の思惑通りその人の論理にはまりこんで、あぁなるほどと思ったりしていた。
その評論を読んだ時も、やはり書き手の論理に流されて、あぁなるほどと思った。
国語の試験を受けながら、そして国語の問題を解くことを楽しみながら、国語いくない(・A・)と考えていた。

でも、ちょっとその意見は違うんじゃないかと、今では思う。
宮本輝さんの「星々の悲しみ」を読んだ。読み進めるうちに、「あれ?これどこかで読んだことがあるな。」と感じた。
しばらく読んでいってから、「あぁそうだそうだ国語の補習で読んだんだ。」と思いだした。
それを思い出した時、何となく嬉しくなった。しばらく会っていなかった友人に、偶然道ばたで再会した時のような気分になった。そんでもって、その友人の、今まで知らなかった一面を発見できたような気分になった。

国語で一度ほんの少し触れたことのある文章だったからこそ、完全体を読んだ時の喜びは大きかった。
受験勉強のときに相当多くの部分的な文章に触れたはずなので、これからまたどこかで再会できた時のことを考えると、ウキウキしてきた。

それに、国語嫌い=本嫌いとなるわけではないと思う。
たしかに、国語の問題では出題者の価値観が押しつけられるようなこともあるかと思う。自分自身の価値観と出題者の価値観がミスマッチして、国語が嫌いになることもあるかもしれない。
しかし、だからといって本が嫌いになるかどうかというのは、わからないはずだと思う。
文章そのものに嫌気がさしたわけではないだろうから。

そもそも、国語教育で本好きを養成しようとするのがおかしな話かもしれない。
国語は国語、読書は読書で割り切ればいいと思う。
文章なんて、漫画にも映画にも含まれているわけで、活字を読まなければいけないという考えはどうもしっくりこない。
読書なんて、ふと興味がわいたときにすればいいことで、何も躍起になって本読め本読めと大人がわーわー言うことではない気がする。
興味の湧き方なんて人によって違うもので、もしかすると価値観のミスマッチから本に興味を抱く子もいるかもしれない。「くそぉ、ほんとに出題者の答えが正しいのかどうか本読んでたしかめてやる。」みたいに。

興味がわかなければわかなかったで良いと思う。読書も映画鑑賞も音楽鑑賞も写真も絵も、そういったものは興味を持った人が楽しめばいいものであって、強制されるものではないはず。

何を言いたいのかわからなくなってきたのでつらつら文章はここで終わり。
起承転結が見いだせないのはいつものことということで堪忍を(・ω・)
一番伝えたかったのは、文章と再会できて嬉しかったということです(笑
by kobaso | 2010-05-01 17:47 | 読書小話
<< 表情って難しい。 金沢文庫~鎌倉 >>