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再読・芥川龍之介(晩年)

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芥川の作品は、すごく好きというかinterestingな感じなんです。
ただ、未だに読んでもわからないところだらけで、かつ自分の考えていることを伝えようにもそれだけの文章力もなく、色んな学者さんが批評してたりもするので、とやかく感想なり何なりを書くのもおこがましい気がして、もう少しちゃんと文章を書けるようになってから書こうと思っていました。
まぁ、でも、現段階での「書けること」を書いておきたい気がして、少しだけ書いてみることにしました。
まとまりのない文章はご容赦くださいましまし。

「河童」
人間批判が書かれているような部分もあれば、自己批判が書かれているような部分もあり、また人間としての存在の理想(芥川にとっての)が書かれているような部分もあって、なにかこう、いろんな嫌悪感が重なり合ってできた感じの作品だと思います。
登場してくる河童に、人間の姿が重なりつつ、芥川本人の姿も重なる。その姿には、言い知れないいやらしさが含まれていて、容赦なく批判されている気がします。
 
『もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴォルテエルの幸福に一生をおわったのは即ち人間の河童よりも進化していないことを示すものである。』

って一文、芥川らしくて好きなんだけれど、同時に芥川らしくて嫌いというか「いいのそれで?」って感じのする所です。

「蜃気楼」
芥川が、本当に、なにもない、ただぼんやりとした小説を書きたくてこの短編を書いたのだとしたら、
あまりにも悲しすぎる作品だと、思います。
ただの日常を描き上げる。その単純な作業の中でも、芥川はふと暗いもの、ドッペルゲンガーとか、棺とか、死体じみたものとかを小説の中に組み込んでしまう。
もう、視点が、そちら側から抜けられなくなってしまっている。
芥川のあらかたの小説を読み終えたうえでこの小説を読むと、なんともいえない感覚が、襲ってきます。

「侏儒の言葉」

『眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。』


芥川の晩年の作品を読んでいると、どれもすごく「客観的」な気がするのだけれど、もしかしたら「主観的な懐疑」なんじゃないかとも思えてしまうんですよね。あまりに救いようもない「いやらしさ」が浮き彫りになってしまっていて。それとも、物事を本当に「客観的に」みれば、様々な事柄は凄惨に、救いようもなくなってしまうのかな。

初期の作品が痛快な感じがするのは、きっと、芥川の懐疑的な視点が、他者のほうを向いているからじゃないかって思います。
それが、だんだんと芥川自身のほうに向いてきて、圧迫される感じになってくる。
「疑いの目」って、きっと、大切なことです。
疑問から物事をつくりだす科学者にとってはもちろん、そうじゃない人にも。
でも、「疑いの目」は、また、危険なものでもあるような気が、するんです。
芥川は、生真面目なくせに、「疑いの目」を持ちすぎた。というか、生真面目だったからこそ、「疑いの目」を持ちすぎてしまったのかもしれません。
芥川の言う、good sence、中庸を、芥川は保ちきれなかった。
「疑いの目」と、「無視・放置」の妥協点を、見出しきれなかった。
この言い方は、あまり良い表現ではないかもしれないけれど、
芥川は、物事を疑い続けた結果どうなるかっていう、実験を成し遂げたんだと、思います。

芥川の『ぼんやりとした不安』は、
「何事にも懐疑的な視点を持ってしまうことへの不安、つねに懐疑が付きまとう不安」
だと思っているんですけど、それだと、うまく「ぼんやり」が説明できない気がするんですよね。なんか。
by kobaso | 2010-10-06 06:50 | 読書小話
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