地震で思うこと

数日分の食料を買いに、スーパーへと出かける。少し遠回りをして、街の様子を見ながら散歩してみる。住んでいる地域は埋立地が多く、地盤が弱いためか、ところどころひび割れているところを目にする。日本の、人間が住んでいる場所って、少し無理をしてできているんだなと思う。そういえば、僕の通っている品川にある大学のグラウンドは、液状化して水溜まりができているそうだ。もっとも、普段からメインストリート脇にある排水溝の水が溢れだして、盛大に川が流れているような大学なのだけれど。

スーパーに着く。練り物や卵、牛乳など、東北地方に関連している食品は全て品切れになっている。日本って小さい国なのだなと実感する。ひとつの地域に、頼りすぎている部分があるのではないか。でも、それがその地域の個性というか、特別性となって、その地域の経済を支えているという側面もあるのかもしれない。何が良いのか、ということが僕にははっきりとしない。
スーパーでは、冷凍保存できる肉類と、保存のきく根菜類を買う。この時、財布の中にあまりお金がなくて、家にはもうほとんど米がなかったのだけれど、明日でいいやと思って米を買わなかった。商品棚には残り3袋ほど食パンが並んでいたのだけれど、普段あまり食パンというものを食べないので、買わなかった。このことを、あとで後悔することになる。

家に帰って、パソコンでテレビのニュースを見る。映し出されるのは凄惨なものばかりで、目の前で家族が流されていった人や共に避難していた人が亡くなったことを知り泣き崩れる人の姿が映っている。自分の、東北にいる友人や、後輩はみんな無事だったのでとても安心したし、嬉しかったのだけれど、こういう話を聞くとなんとも言えない気分になる。

夜9時ごろ、輪番停電の詳しいグループ分け情報をネットで知る。夕方の時点では各グループ3時間程度の停電ということで高を括っていた。情報によると僕の住む横浜市鶴見区は最低でも6時間、長ければほぼ1日停電していることになる(横浜市鶴見区という記載と、横浜市という記載が重複するかどうかわからないので)。家の調理器具は全て電気なので、停電となればご飯を作ることができない。急いでスーパーとコンビニに弁当やパンを求めに行く。しかし、同じような状況の人が多いのだろう。店の中は人でいっぱいで、弁当やパンの類は全て売り切れている。仕方なく、とぼとぼと家に帰る。帰る途中、こうこうと明かりを照らし、盛大な音をたてて営業しているパチンコ屋さんの横を通る。こんなときに何をしているのだろうと思う。
家々の窓に明かりは無く、店にはあんなに人がたくさんいたにも関わらず、住宅街はひっそりとしている。星が見える。

家に着いて、残り2合ほどになったご飯を炊き、おにぎりを作る。少ないけれど、1日は我慢できそうな量のおにぎりができる。
おにぎりを作って安心してから、ふとパチンコ屋さんのことを考える。
パチンコ屋さんが営業していることは、はたして悪いことなのだろうか。そんなことは、ないのかもしれない。
パチンコ屋の店員も、客も、地震の事を忘れているということはないだろう。こういうときだからこそ、できる限りの日常を取り戻そうとするのは、むしろ自然なことなのかもしれない。
「西日本での節電を呼びかける情報はデマで、意味がない。」と友人がSNSに書き込んでいた。僕はそれに対して「無意味ではない。」と書き込んだ。たとえ節電の効果に限界があったとしても、直接被害にあっていない地域の人のそうした心遣いが、被災地の人の何らかの励みになるかもしれないと、その時は思ったから。でも、それもどうなのかと疑問に思う。日本全体が粛々としてしまうのは、いけないだろう。沈んでいる地域があるからこそ、明るくなる地域が必要なのかもしれない。被害がない地域だからこそ、大いに日常生活を営んで、日本を支えるべきなのかもしれない。
その上、その友人の情報は正しく、西日本での節電は実際あまり意味がない。政府の「国民の皆さんに節電をお願いする。」というのは一体何だったのだろうと思う。
とはいえ、輪番節電をしなければならないほどの電力不足に陥っている関東地方において、電力を盛大に消費してしまうような施設は、何らかの配慮をすべきではないかとも思ってしまう。それは、ただ単に僕自身の日常生活に「パチンコ」というものが入っていないからだろうか。何が良いのか、ということがやはり僕にははっきりとしない。

ほぼ1日停電するとなると、飼っている熱帯魚の命が危ない。たかが魚だけれど、されど魚である。自分が命を管理している以上、それを殺すということは、できれば避けたい。
地震の揺れに備えて下げてあった水位を、保温効果上昇の為に、上げる。
水槽のまわりを毛布でくるむ。くるんでいる時に、水槽の中という不自然な環境の中に閉じ込められている魚のことを考えて、少し悶々とする。自然の中にいる生き物を飼うということは、やはり不自然なことで、人間のエゴが含まれていることだと思う。思いはするのだけれど、魚は好きだし、魚がいることで精神的に助けられることがある(こう書くと、なんだかさびしい人みたいですね)。以前、生き物を飼うという行為について考えを書いた。「飼う」ということの不自然さを実感した今でも、その不自然さを感じつつ生き物を飼っている。ほんとうに、何が良いのかということが僕にははっきりとしない。

身の回りは、僕にははっきりとしないことがぐるりとしているのだなと、電球とパソコンの明かりしかない暗い部屋で、思った。
by kobaso | 2011-03-14 01:19 | 退屈小話
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