個性

先日、塾の生徒が、学校から「"自分の個性"についての作文を書け」という課題を課せられたのだけれど、何を書けばいいのかわからなくて困っていると相談してきました。

ゆとり教育が終わったとは言え、未だに個性が重視されているのだなと感じました。
自分の個性って、そんなに簡単に説明できるものなのでしょうか。

「個性」って、誰にでも当てはまる言葉で、かつ、誰にも当てはまらない言葉なのではないかなと思います。
どの人でも個性がないということはあり得ませんが、かと言ってその人の個性は何か具体的に説明しなさいと言われると、難しいものです。

誰にでもあてはまる個性というものは、その人のどこに宿るのかというと、その人のコミュニケーション方法だと思います。
例えば、言葉。
僕がよく本を読んでいて思うことなんですが、例えば、10人の作家さんを集めて全く同じストーリーの話を書かせたら、きっと全く違った雰囲気の小説を10人それぞれが書くんじゃないかなと思うんです。
作家さんごとに、抜き出す風景、登場人物の心境や、それらを表現するときに使う言葉の組み立て方が違うだろうから。
僕たちが感じるその作家の個性というものは、その作家の言葉で形作られているような気がします。
なぜなら、作家は僕たちに、言葉を組み立てることでコミュニケーションするしかないから。

では、言葉を使えない犬に個性はないのかというと、そんなことはないように思います。
たとえ同じ犬種で同じサイズの犬が集まっていたとしても、犬が人に送る目線だとか、号令をかけた時に対する反応だとか、虫を見つけた時に対する反応だとか、他の犬に対する反応だとかで、その犬の個性を感じることができるはずです。それは、犬が人間に対して「しぐさ」でコミュニケーションをとっているからだと思います。

普段、身のまわりでは人間は、本の中の作家のように言葉だけではなく、また犬のようにしぐさだけでもなく、言葉やしぐさや装飾品や身体的な特徴など、いろんなもので、コミュニケーションをとっています。

昨年の夏ごろ、友人と佐藤雅彦さんの「"これも自分と認めざるをえない"展」に行ってきました。
そこでは、人の写真がずらーっと同じような雰囲気の服装の人たちごとにグループ分けされていて、「属性」というものを強く感じさせられました。その服装の雰囲気で同じグループに分類された人達の写真からは、1人1人の個性を感じることはできませんでした。しかしながら、グループとグループを見比べた時に、そのグループの特性、属性がくっきりと浮かび上がりました。
それは何故かと考えてみると、様々なものでコミュニケーションをとっている人間のなかから、「服装」というコミュニケーションツールだけが抽出されたからではないかなと思います。
もし、その同じグループに分類された人々が言葉を発し始めたとしたら、たちまちその「服装で同じグループに分類された人達」に個性が表れ始めるのだと思います。しかし、その人の発する言葉のみに着目してまたグループ分けを行ったとしたならば、再びその人の個性は埋没し、属性が出現してくるのではないでしょうか。
ベン図で考えると、属性と属性の重なった部分に、個性が出現してくるのだと思います。
そして属性というものは、僕たち人間の事細かな項目にまで存在し、その属性と属性の重なる部分というものは、小さく小さくなっていって、より確かなその人らしい個性が浮かび上がってくるのだと思います。

「個性を磨け」という言葉をよく聞きますが、属性と属性の重なりが個性だと考えると、その言葉の意味がよくわからなくなってきてしまいます。個性は浮かび上がってくるものであって、作ったり磨いたりするものではないはずです。
それは、今回その生徒が学校から課せられた「あなたの個性について説明しなさい」という設問にも同じことが言えます。自分の個性とは何か考えて文を書くよりも、今日起こった出来事(朝起きて何をしたとか、今日はどんな服を着たとか、友達とどんなことを話したかとか)について、自分の言葉で書き綴った方が余程「自分の個性」について説明できるはずです。

「個性」という言葉は便利ですが、同時にとてもなんでもない言葉でもあります。
わざわざ説明するものではないのではないかなと、思うんです。

久しぶりに何を言いたいのやらわからない日記を更新しました(笑
つまりは、とても陳腐な表現なのですが、個性なんてあとからついてくるもんなんだから、そんなに個性について悩ませなくてもいいんじゃないのかなということでした。
by kobaso | 2011-06-08 00:44 | 退屈小話
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