●理科教育における問題
3.11以前の日本の小・中学校の理科では、放射線と原子力に関する教育内容が正面切って取り上げられることが少なかった。また、放射線の取り扱いは、1969年以来40年間、中学校の理科学習指導要領に含まれなかった。そのため、現在の中学校教員の多くは(少なくとも理科教員以外の教員は)それを教えた経験だけでなく学んだ経験もない。そのうえ、「科学技術と人間」が中3の終わりに教えられ高校入試にあまり出ないゆえに、実際に中学理科の授業で放射線と原子力に関する問題が取り扱われることは少なかったと言える。 文科省の行っている原子力問題に関する教科書検定意見について検討してみると、原発に肯定的な姿勢がうかがえる。例えば、『①原子力発電について短所を述べ自然エネルギーについて短所を述べていないような場合、エネルギー資源についてはそれぞれの長所と短所を記載せよ』『②原子力の安全性への懸念についての記述がある場合、「安全性」が問題なのではなく、「安全管理」に課題がある、あるいは「一部住民に安全性に対する不安がある」とせよ』『③各国とも原発の建設に慎重になってきているという記述がある場合は、「各国の対応は様々」とせよ』のようなものである。日本原子力学会も小中学校教科書の点検を行っており、原発の存在を前提としたコメントが多々見られる。例えば、『①「日本の発電の1/3は原子力」という記述に対しては「正確」である』『②原発は、「CO2を排出しない」一方で、「安全性や廃棄物の処分場などの課題がある」などと併記してあれば、「中立的」である』『③「安全面に不安」とするより「安全性について解決すべき課題が残っている」とするほうが適切』『④ウランの埋蔵量にも限界があるという記述に対しては、「核燃料サイクルに触れることが望ましい」』のようなものである。 原発事故以前の放射線教育のどこが間違っていたのかを考えてみると、私は主に3つの問題があったのではないかと考える。それは、①文科省の偏った教科書検定、②教科書に対する絶対的な信頼、③教育そのものが「受験対策化」してしまっていたことである。 ①については、前述した主張の中に表れている。「原発は国策である」という立場から、中立性を欠いた教科書検定がなされており、教科書だけを読んで判断するならば、原発に対する反発は生じる余地がない。 ②について、「教科書を疑う」という考え方があれば、原発存続・発展だけを視野に入れる考え方からは脱却できる。しかしながら、過去の教育現場でそのような考え方があったとは考えにくい。「教科書」は「解答」であって、揺るぎないものとされていたのではないか。 また、③について、教科書への絶対的信頼はどこからきているのか考えてみると、一つの原因として教育そのものが「受験対策化」してしまっていることが考えられる。勉強の目的は「良い高校・大学に行くため」であって、物事の本質を見ようとするものではない。だからこそ生徒も教員もある問いに対して、単純明快な「解答」を求める姿勢となってしまうのではないか。そして、その「解答」のよりどころとなるのが「教科書」であって、教科書に記載されている事柄を自身の解答に用いれば、入試で点数を引かれることはあり得ない。 ある団体が原発を推進しようとすることそれ自体は健全なことであるように思う。しかしながら、問題は、そういった一つの声しか教育現場に反映されず、その声を絶対的に正しいものとして生徒・教員が無意識のうちに信じ込んでしまうことなのではないだろうか。このような社会的背景の転換となるチャンスは、「ゆとり教育」にあったように感じられる。しかしながら、「ゆとり教育」においても「入試の為の勉強」という概念は覆されず、結果として思考力が身に付かない結果となってしまったのではないか。 続いて、3.11以降の理科教育における問題について考えてみたい。事故後、文科省から教育現場へ以下のような文章が発表された(科学2012年10月 崎山)。 『・「確率的影響」のうち「遺伝的影響」は、これまで人間(広島、長崎の原爆被爆者や核実験被爆者、チェルノブイリの原発被爆者含む)で見られたことがありません。』 『・「発がん」の確率は、弱い放射線の場合、積算100ミリシーベルトで約0.5%程度上昇すると見積もられています。今回、原発事故で考えられる唯一の身体影響は、「発がん」です。』 『・原発付近に滞在する住民の方におかれても、積算で100ミリシーベルトを被ばくすることは、今の状況では、考えられません。積算で100ミリシーベルト以下では、他の要因による「発がん」の確率の方が高くなってくることもあり、放射線によるはっきりとした「発がん」の確率上昇は認められていません。』 しかしながら、この文章が発表された当時(2011年4月20日)の段階では、住民の被ばくの実態も分からなかった。初期被爆の実態も分かっていないにもかかわらず、なぜ「唯一の身体の影響は、「発がん」です。」などと断定できたのか。そもそも、0.5%上昇するのは「発がん率」ではなく、「死がん率」である。チェルノブイリ事故での事故処理者、汚染値からの避難住民などに先天的形態異常も報告されており、がん以外に特に子どもには免疫系、内分泌系の疾患、若年性老化など多様な影響が報告されている。これらの事から考えて、この文科省の発表には疑問を感じざるを得ない。 3.11以前に、理科教育における副読本として、「チャレンジ!原子力ワールド」が各校に配布されていた。この副読本で扱われた内容は、日本と世界のエネルギー事情、各発電方法の特徴、原子の性質、放射線、原子力発電のしくみと特徴、原子力発電の現状と今後、と網羅的だった。しかし、内容に問題点があり、「これまでに起きた原子力施設の重大な事故は、人為的なミスが主な原因」であり、また日本ではすでに「事故を防ぐ仕組みを見直し」ずみ、日本の原発の地震・津波対策は十分であり、原子炉は多重防護の考えの下で安全、また核燃料サイクルは重要という見解のみを「事実」の説明として与えようとするものになっていた。また、その姿勢にも問題がある。その叙述の基本姿勢は、(1)図表などを多様に用いて情報を次々に並べつつ、実は、個々の情報の批判的な吟味を促さない、(2)原子力発電という科学・技術と社会が関わる問題について、多面的総合的な検討の必要を一方では謳いながら、他方で問いも答えも複数の立場からの検討を避けている、(3)大きなニュースになった東電や動燃のトラブル隠し・データ隠しなど、公開性や企業・行政機関や専門家の倫理性に関する問題には全く触れない、というもので、結局のところ、自立した思考による検討の姿勢を生徒に促さないものになっていた。この副読本は、原発事故後に国会で議題に上がり、即座に回収された。 2011年秋に、再び副読本として「放射線副読本」が発行された。基本的な傾向は、上で述べた原子力副読本と同様である。市民や一部の教員からは、『文科省の副読本を差し止めたい』とする声もある(科学 2012年10月 後藤・國分)。教員(後藤)が文科省の副読本に対抗するため、独自に副読本を作成し、配布する動きもあり、これに対して肯定的な意見も多いが、一方で一部住民からは「ホルミシス効果を載せていない」などとする批判の声もある。住民の中に『追い詰められた状況の中で、安全と思いたい気持ち』があることも事実であり、だからこそ、放射線への危機感の薄い文科省の副読本が地元住民にすら浸透してしまう危険性もある。 中学校の新学習指導要領では、理科第一分野に放射線教育が導入された。これに基づき、「放射線の性質と利用についても触れる」こととなり、放射線についてかなり多くの内容を教えることとしている。また、教科書執筆者には、原発推進を特に意識した教材の意図はそれほど強くないと思われる。一方で、ほとんどの社の教科書は、原発事故やそれに伴う放射線のリスクを正面から扱った記述を行っていない。また、原子力発電についても、現在国で議論されているようなエネルギー政策をめぐる争点には、ほとんど言及が無い(科学2012年10月 小玉)。そうしたなかにあって、唯一、福島第一原発の事故について言及しているのが、大日本図書の理科教科書である。「福島第一原発の原子炉が破損する事故が起きた」ことを明記し、チェルノブイリ原子力発電所事故の写真とともに「原子力発電所の事故」として取り上げ、「人体に健康被害が出るおそれ」を指摘している。(中略)エネルギー政策について、「原子力の利用が欠かせないと考えている国がある一方、原子力を廃止して再生可能エネルギーの利用を高めようとしている国もある」と述べている。 このような、大日本図書の動きに見られるような傾向が他の出版社にも見られるようになれば、さらに踏み込んだ原子力教育が可能になると考えられる。 今後の理科教育はどのようにあるべきなのかについて、考えてみる。原発の問題はトランスサイエンス的な問題であり、単純な、今までのような明快な答えを求める理科教育では対応しきれない。そのため、科学と社会が関わる問題を自分で考える方法について学べる理科教育を作らなければならないというのは明白である。 しかしながら、現在の教育体制ではそのような教育方針を打ち立てることは難しいのではないか。理科教科書の内容が中立的になったとしても、その「中立的な内容について着目する機会」が無ければ無意味である。また、現状の「入試」に対応すべく編成された授業では、知識の詰め込み型教育になってしまう危険性もある。また、新教育課程において、実験・考察の項目は大幅に増やされたものの、英国に見られるような技術社会論について考えるような時間は設定されていない。近年の日本の理科教育において問題視されているのは、思考力の欠如であるとされている。確かに、実験・考察の項目を増やせば限られた情報から判断する短期的な思考力は養われるかもしれない。しかしながら、一つの事柄に対して様々な立場に立った情報を集め、多面的に熟考していくような「思考力」は身に付かないのではないだろうか。また、そのような「思考力」は大学入試で求められるものでもなく、余計に教育現場で取り組みにくい内容となっているように思える。このことから、教科書や副読本の内容、授業の内容について改善していく必要もあるが、入試制度や教育制度そのものを考え直していくことが、今後の理科教育・原子力教育には欠かせないことのように感じる。
by kobaso
| 2013-08-23 12:02
| 退屈小話
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