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うたのうら

近畿地方では木枯らし1号が吹いたようですね。琵琶湖ではアユの産卵シーズンも終わって、冬将軍の足音が近づいてきた頃でしょうか。こんばんは。今更ながら車の免許をとりに教習所に通い始めたkobasoです。

先日、電車の中で高校生2人組が、こんな会話をしていました。
「あー。もうさ、まじ古文とか何のためにあんのかわかんなくね?」
「将来何の役にも立たなくね?」
「意味のないもんやってもさ、ただの時間の無駄じゃんね。」

そうか、と思いました。
僕は、高校の頃、国語の時間が大好きで、特に古文が好きだったのだけれど、友人には古文の嫌いな人が多くて、それが何故だか分りませんでした。
「古文を勉強すること」に「実用性」を求めていたんですね。
それはきっと、つまらないだろうな。
古典も数学も生物もなんでも、「実用性」を求めたらつまらなくなってしまうだろうなと、思います。
高校の教科で、本当に実用性のある教科なんて、英語くらいじゃないかな。
最近、色んな教科で、身のまわりの事柄と関連させて「実用性」をもたせることで、生徒に興味関心を促そうという風潮があるような気がするけれど、これって下手をすると、変な方向に教育がいってしまうんじゃないかなと思います。「面白さ」を伝える方法のひとつとして「実用性」を活用しなければならないはずなのに、いつの間にか「面白さ」を飛ばして「実用性」を伝えるだけのものになってしまうんじゃないかなと、思うんです。そんなのつまらない。

話が古文からずれてしまいましたね。

古文、特に和歌には言葉遊びがふんだんに用いられています。
和歌を解読することは、なぞなぞを解く感覚に似ているように思います。
色んな修辞法、特に折句(五七五七七の頭をとるとひとつの単語になる)で有名な

から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

なんて、その典型でしょう。
ひとつの和歌にはいろんな言葉や、意味が隠されていて、その一つ一つを見つけていく。
作者のいたづら心と遊んでいるような気がして、楽しかったな。

あと僕は、あからさまに「あなたが恋しくて、会えなくて寂しい」みたいなことをストレートに言っている歌よりも、
言葉の裏に本当の心を隠して、遠回りに自分の心を詠んだ歌の方が好きです。
ことばは「言の葉」。ことばにのせた心も、いづれは木の葉のように枯れてしまうものかもしれません。
僕は将来の夢とかは言葉にするれど、生きるためのよりどころになっている、物語のような希望は、言葉にしたくありません。言葉にすれば、ふっと吹き飛ばされてしまいそうなものだから。誰かに否定されたりしないように、そっと胸の中にしまっています。けれど、どうにもこうにも、言葉にしたくなってしまう時って、あるんですよね。
そういう時は、誰にも気づかれないように言葉の裏に心を隠して、表現する。
きっと、昔の人も、そういうことってあったんじゃないかな。
上手な歌を読む人は風流な人として認められていたようだけれど、必ずしも風流さだけを求めて歌を詠んでいたわけではないんじゃないかなというのが、僕の持論です。
自己満足だけれど、言葉の裏に心を隠して、相手に渡す。相手がそれに気付いたらそれはそれでいいし、気付かなければそれはそれでいいみたいな、そんな歌もあったんじゃないかな。

そんなこんなを妄想したりしながら古文の授業を受ければ、ちょっとは楽しくなるんじゃないかな。ならないかな。
高校生2人組は、古文の単語帳を手で弄びながら、電車を降りて行きました。
by kobaso | 2013-11-04 21:26 | 退屈小話
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