人気ブログランキング | 話題のタグを見る

永遠の0 / その日東京駅五時二十五分発

永遠の0 / その日東京駅五時二十五分発_b0180288_381946.jpg

永遠の0

『あの人こそ「生き残るべき人」だったんだ』

ちょっと堅いレビューになるかもしれません。
本当は終戦記念日の日にこの下に書く「その日東京駅五時二十五分発」をアップしようと思っていたのだけれど、父親が同じことをしていたのでやめました。
原作のレビューが書かれています。

純粋に映画として面白い映画でした。ストーリー展開も、構成も。
冒頭部分を見た時に、「こんなラストシーンだったら嫌だな」と想像していたものと全く同じラストシーンであったことと、見方によっては若干美化されてしまっているようなところがあることを除いては。

ここ数年、なんとなく騒がしくなって、戦争を肯定的に捉える意見をちらほらと耳にします。
幸か不幸か、まだ僕はそういう意見を持った人としっかりと話をしたことがありません。
ただ、いささか乱暴な意見が耳に入ってくるようになったそのことに、若干の嫌悪感と共にこわさを感じてもいます。

「死にたい」という欲望といっていいのか、感情のようなものはきっとどの時代のどんな人にも共通してある。けれど、それに抗うように「生きたい」という感情もまたあって。今この時代では、そのせめぎあいの中で、家族の存在だとか社会制度の仕組みがあって、なんとか、「生きたい」という感情が勝つことが多い。
「死にたい」と「生きたい」の闘いのなかで、「誰かを守るため」という理由で個人的に死が肯定されて、死ぬことを英雄視することで社会的に死が肯定されてしまう事態は、とてつもなく恐ろしいことなんだと思っています。
「死ぬのならば誰かの役に立って死にたい」という感情が自分に無いというと嘘になるし、「死にたい」とふとした時に思ってしまう瞬間がないというとそれも嘘になる。だからこそ、それは恐ろしい事態だと思います。

『あの人こそ「生き残るべき人」だったんだ』
この台詞に、尾を引くような違和感を感じてしまいました。
戦争の中であっても「死ぬべき人」がいないのと同じように、「生き残るべき人」だっていないはずなのに。

永遠の0 / その日東京駅五時二十五分発_b0180288_241164.png

その日東京駅五時二十五分発 / 西川美和 / 新潮社

『まるで実感がわかないのである。実感がわかないから、心配する気持ちにも、芯がない。(中略)ぼくの心は、壊れているのか。』

永遠の0のような、壮絶な死みたいな話は、(直接的には)出てこない。壮絶な死だけが「死」なわけでもない。
この本の主人公は、終戦の玉音放送の前に部隊解散を告げられた通信兵。自分は戦争が終わったことを知っているけれど、周囲はまだ戦争を続けている宙ぶらりんな状態。故郷の広島に原爆が落ちたことは知っているけれど、直接目で確かめたわけでもない宙ぶらりんな状態。

その主人公の宙ぶらりんさが、僕たちの世代に(あるいは親の世代に)不思議と似ている気がしました。

戦争や原爆の話は聞いているし、その爪痕だって知っている。テレビをつければどこかの地域で今も戦争や紛争をしているニュースが流れる。けれど、当然、実感はわかない。
知っているようで知らず、近いようで遠い、宙ぶらりんな状態。

けれど、戦争に対する言いようのない嫌悪感みたいなものは、持っている(人が多い…はず…)。
もうあと数10年もすれば、戦争についての実体験を語ってくれる人はほとんどいなくなってしまうはずで、たぶん、これからはその実感のわかない宙ぶらりんな状態で「戦争に対する言いようのない嫌悪感」みたいなものを、どうやってつなげていくかが大切になっていくんじゃないかなぁと思います。

第二次世界大戦が終わって、まだ100年も経ってないのにね。
by kobaso | 2014-09-06 01:41 | 映画小話
<< 双眼鏡からの眺め いちばんここに似合う人 >>