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新宿駅のホームで、薄汚れたトナカイの被り物をかぶった彼が、宙を見ながら少しキーの高い大きな声で絵本の内容を諳んじている。
「ある日、おそろしい まぐろが、おなかを すかせて、すごい はやさで ミサイルみたいに つっこんで きた。」 彼に似た顔を、僕は知っている。丸い顔。小さな目。丸い鼻。すぼんだ口。 ホームの人々は、彼から少し距離をとり、ちらちらとその姿を気にしている。まじまじと眺めている人もいる。 僕は思う。 「彼は気にしていない。彼は彼の中で生きている。」 黄色い一本のラインが横に伸びた車両がホームに入ってくる。 人々が電車に乗る。彼も人に押されるように電車に乗る。僕も同じように電車に乗る。彼は椅子に座る。僕は彼に背を向けて立つ。 電車の中で彼はぽそぽそと、少しキーの高い小さな声で絵本の内容を諳んじる。 「そして、風にゆれるもも色のやしの木みたいないそぎんちゃく。」 表情は見えない。 目の前の、僕と同じくらいか少し上くらいの年の男の人2人組が、薄っぺらい顔で話している。 「あいつ、三鷹あたりで森に帰るんじゃね?」 「トナカイ三鷹にいたっけ?」 「日本にすらいねーよ。」 僕はのっぺらぼうのような顔で思う。 「彼は気にしていない。彼は彼の中で生きている。」 男の人の隣に座っているおばさんが、ちらりと彼を見ては目を伏せ、目を伏せてはちらりと彼を見ている。 ドアの近くに立っている小学生が、口角を上げながら興味津々の眼差しで彼を眺めている。 隣の隣に立っているおじさんが軽く舌打ちをする。 僕は目を閉じて思う。 「彼は気にしていない。彼は彼の中で生きている。」 電車は何度か駅で止まり、中野駅に到着する。 彼は立ちあがる。降車のタイミングを少し見失って、人の流れに逆らって降りる。 ホームに着いた途端、彼はまた少しキーの高い大きな声で絵本の内容を諳んじる。 「スイミーは言った。出てこいよう。みんなであそぼう。」 彼は若い男性にあたって少しよろける。男性は軽く彼を睨んで電車に乗り込む。 僕は携帯電話を片手にしながら思う。 「彼は気にしていない。彼は彼の中で生きている。」 …本当に? 電車のドアが閉まる。 僕は能面のような顔で思う。 「彼が気にしていませんように。彼が彼の中で生きていますように。」 僕は自分自身を庇うことで精一杯になりながら、トナカイの後ろ姿をぼんやりと眺める。 電車は三鷹へと向かって進んで行く。 ▲
by kobaso
| 2012-03-12 02:02
| 退屈小話
こんばんは。お久しぶりです。
最近、あまり自分の身の回りの考えたことなど、ここに書いていませんでしたね。 久しぶりに出てきた言葉をつらつらと書いていこうと思います。 特に誰かに向けて書くわけでも、何か特別なことを言おうとするわけでもないですが。 東京にスカイツリーが完成して、しばらく経ちます。スカイツリーが完成した今でも、東京タワーは東京タワーとして、壊されることもなく高く、ビルの隙間からならば遠くからでも見ることができるほど高く立っています。 東京のシンボルと言えるものが2つできて、どちらもシンボルとしてその姿をとどめています。 東京に住んでいる人は、どちらを東京の象徴として見ているのでしょうか。 どちらを、というのは少し間違いかもしれませんね。東京には象徴なんてたくさんあって、国会議事堂も皇居も、渋谷駅前のハチ公も、雷門だって東京の象徴です。人によっては東京タワーもスカイツリーも、象徴だなんて思わないのかもしれない。 それでも田舎者の自分は、その目につく東京の象徴を象徴として、これが東京なんだろうなと思えるものを探してしまっています。東京で過ごすうちに象徴は2つになり3つになり、4つになり、いくつもいくつも増殖して、もはや何が象徴なのかわからなくなっています。東京の目印がわかりません。 その環境の中で過ごすうちに、目印として存在していたものに慣れてしまって、もはやそれが目印として機能しなくなってしまっています。自分は何を目印に過ごしてきたのかと、ふと考えることがあります。 高校の時は、水圏の生物がやりたくて、将来は学芸員か教員になりたくて、すこし曖昧ながらもそれなりにはっきりとした「目印」をもって東京に出てきたはずなのに。今となっては生物に魅かれながらも化学に転身し(むろん面白いと思ったからこそ転身したのですが)、将来も非常にぼんやりとしてきて、とうとう来年度扱う研究テーマまでぼんやりとしてきてしまいました。 目印を見失ったときは、どうすればいいんでしょうね。 一度外に出て、遠くから眺めると目印が見つかることもあるかもしれません。 身の回りを散歩して、ひとつひとつ注意深く眺めていけば、自分の身の回りに新しい目印を見つけることもあるのかもしれません。 僕の今住んでいる家からは、スカイツリーも東京タワーも見ることができません。しかしながら、少し家を離れれば、目配せだけで意思疎通ができる快適な、夫婦経営の喫茶店もあるし、ぼんやりと散歩できる公園もあります。新しい目印ができ始めているのかもしれません。その目印を見失わないといいけれど。 大学に入ってから、何故か、キノコが好きになりました。 キノコの中には、何かに寄生しながら生きているものがあります。 冬虫夏草は虫に寄生し、サルノコシカケは樹木に寄生します。キノコに寄生するキノコも、います。 冬虫夏草は十分に養分を吸収できるまでに幼虫が死んでしまうと、冬虫夏草自体も死んでしまうし、サルノコシカケも樹木が枯れてしまえば死んでしまう。宿主が死なない程度に養分を奪い取りながら、着々と自分自身が成長していく。 菌根菌の仲間は、樹木の根元に生えますが、樹木に寄生しているわけではなく、樹木と互いに必要な養分を交換し合いながら生きていると言われます。 人間も、ある程度は人間に依存しながら生きていかざるを得ません。 自分が歩くキノコだとしたら、寄生するキノコか菌根菌か、今、どちらになっているのでしょうか。 キノコの本体である菌糸体は、目に見えるところにはなく、地下の中でしっかりとその勢力を伸ばしていきます。 寡黙な人がいます。というよりも、人間は寡黙なものかもしれません。 あまりしゃべらない人は、声として発していないだけでこころのなかでは色々な言葉を発しているのかもしれない。 よくしゃべる人も、声で発していることとは全く違う言葉を、こころの中で発しているのかもしれない。 僕は、勝手にその菌糸体の部分をよく想像してしまいます。それがために、キノコの部分とうまく会話がかみ合わないというか、キノコにうまく反応できないことがあります。 菌糸体の部分は想像することしかできないので、自分の想像した菌糸体と実際の菌糸体が全然違うということはあるのかもしれません。かもじゃないですね。恐らくはほとんど違う場合なんでしょうね。 この辺にあるだろうと思っていても、実は全然違うところにその根を張っていたりする場合がほとんどです。 目で見えるのはキノコの部分なのだから、まずはしっかりキノコを見ないといけないのにね。 気付くとどのようにそのキノコが出てきたのか、その地下の方ばかりを気にしてしまうんです。 困ったことに。 そのくせ、自分の好きなキノコも目に見える形で生えてきてほしいと思っています。 面倒なことに。 最近は、こんなようなことなどをぼんやりと考えているkobasoなのでした。 こんなようなことなどを考えながら料理をすると、こんなものが出来上がっていました。 ![]() すこし香辛料が足りなかったのか、辛味がちょっとばかり足りない味でした。ぼんやりしながら作っていたからかな。 まだ自分の作る料理は、自己満足の領域を出ずに、自分の消化器官で消化されていきます。 ▲
by kobaso
| 2012-03-12 00:50
| 退屈小話
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